蝶に魅せられた旅人アーカイブス2012-07-31 18:20:06
ー捕虫網の円光ー
『西へ西へ、南へ南へ』
第二番札所・ロリータ、ロリータ
2011年 9月10日
午前5時20分。空が白み始めた。
永い夜がようやく明けようとしている。
しかし、ほとんど落ちかけ寸前だ。意識が朦朧としている。このままだと気を許した瞬間、いつ何時ふいに昏睡するかどうかもわからない。
6時に店を出る予定だったが、5時40分に会計を済ませた。マックスバリュに行って昼飯でも買おう。立っている分には寝ることもなかろう。
天気予報では、今日の宮崎は雨のち曇り。最悪だ。
ここまで来て、彼女に会えないかもしれない。
自身の晴れ男の星を信じるしかあるまい。
体が鉛のように重い。心もささくれだっている。体力も気力も薄皮一枚で辛うじて繋がっている。
6時過ぎに佐伯駅に到着。
少しでも時間を潰す為にトイレで歯を磨く。ベンチなんかに座ろうものなら、即一発で昇天しかねない。
6時10分、延岡行きの電車が1両でホームに入って来た。
座席に倒れかかり、目を閉じる。
起きれるかどうか不安だが、一応アラームはセットした。もし起きれなければ、どうせ折り返し運転だ、また佐伯駅に強制送還で連れ戻されるだろう。それだけは何としてでも避けたい。次の宮崎方面への電車は午後5時まで無いのだ。
とにかく目だけでも瞑ろう。それでも少しは体力も回復してくれるだろう。
睡眠不足の採集行としては、佳蝶クモマツマキチョウ以来の苛酷さだ。あの時もトータル5分か10分しか寝てない。
神経がズタズタになっているせいか、眠ろうとしても眠れない。
おまけにワンマンカーなので、停車する度ごとに間抜けな女の声で、馬鹿の一つ覚えみたいに『整理券をお取りください、整理券をお取りください』と大連呼されるので眠れやしない。
とにかく、鬼門・大分の呪縛から逃れなければならない。身体中にピンクの毛虫が這い回らぬうちに一刻も早く脱出しなければならない。
7時38分、延岡着。
宮崎県に入った途端、嘘みたいに晴れ出した。
しかも、たったの2分待ちで西都城行きに乗り継げた。これで宮崎駅で乗り換える必要も無くなった、一本で田野駅まで行ける。
日向海岸では、ついに快晴になってしまった。
この晴れ男っぷり、我ながらスゴい。
午前10時01分、予定通りに田野駅に着いた。
ふらふらになりながらも、一応時刻表の写メを撮っておく。ローカル線は都会みたいにひっきりなしに電車がやって来るワケではない。帰りの事を想定して電車の時刻を把握しておかなければならない。下手したら電車が出て行ったばかりで、一時間以上も待たされる事だってあるのだ。
ほ~らー、やっぱり1時間に1本しかないじゃないか。
それにしても永い道程だった。移動時間計22時間にも及ぶ永い道のりが一瞬フラッシュバックする。安堵でその場に崩れ落ちそうになる。
だが、それが目的ではない。今からが本当の本番だ。小さな女神に会えなければ、全ては無意味だ。
【タイワンツバメシジミ Everes lacturnus】(出展『日本産蝶類標準図鑑』)

後翅にツバメのような尾状突起を持つ小型のシジミチョウ。
年1化、8月下旬から10月上旬にかけて見られる。普通種のツバメシジミによく似るが、やや小さくて、羽の裏面のオレンジの部分がより大きいことなどから区別できる。♂の表翅はブルー、♀は茶色をしており、食草であるシバハギ(マメ科)とススキが混在する草地に棲む。近年このような荒れ地草原が減り、各地で急速に姿を消していると言われる。
分布は紀伊半島の沿岸部、高知県、九州、種子島、屋久島、奄美大島、沖縄本島とされるが、紀伊半島、高知県、奄美大島、沖縄本島では、近年その生息が全く確認されておらず(註1)、絶滅したと思われる。多産地とされてきた九州でも、南部の宮崎、鹿児島県以外では個体数が激減しているようだ。
長崎県天然記念物(平戸・生月島)。
残骸のような誇りをかき集めて、男は山に向かって歩き始めた。
海岸部は快晴だったが、山間部に入ると流石に雲が多い。いつまで天気が保(も)つかも分からない。
体調は明らかにおかしいが、直射日光の当たる車道横をハイスピードで登ってゆく。
30分ちよっとでポイントらしき場所に着いた。
だが、まだまだ経験不足の男には食草が特定できない。シバハギを図鑑で見てインプットしてきた筈なのに、すぐに何が何だか分からなくなる。見てくれが似たような植物が多いのだ。食草がわからなければ、ポイントを見つける事が困難になる。逆に食草さえ解れば、目的の蝶に出会えるチャンスが格段に上がる。蝶は食草周辺に居る確率が高い。特にこんな草原性のこんまい蝶はその傾向が強いだろう。つまり、食草が解らなければ無駄歩きが増えるだけだ。
仕方無く見た目が近い普通種トリオのツバメシジミ、ルリシジミ、ヤマトシジミを闇雲に片っ端から網に入れて確認してゆく。
特にツバメシジミは擦れボロだとタイワンツバメと酷似していて、素人もどきの自分には判断不能だ。
そもそも普通種のツバメシジミを真剣に採ったことがあまりないし、ディティールの記憶が薄い。朦朧頭では、ひたすら混乱を生じさせるばかりだ。
らしきものも幾つか押さえたが、自信が無くなってきた。しかもボロだらけだと、自分が何をしているのかさえも曖昧になり、モチベーションが保てなくなってくる。そこに9月とはいえ、まだまだ強烈な陽射しが容赦なく降り注いでくる。焦燥感と徒労感とで、心が黒く染まり始める。
こんな九州・宮崎の片田舎の工場裏のどってことない草っぱらで、必死になってド普通種のこんまいシジミを採っているなんて、どう考えても悪夢以外の何物でもない。嫌な汗が止めどなく流れる。
移動地獄+睡眠不足という究極の拷問の末、炎天下のブッシュを歩き回ってイバラに傷だらけにされるだなんて、ジーザス。神よ、あまりに酷な仕打ちだ。
もうでもよくなり始めた頃、少し離れた場所でオレンジ紋の強い奴を得た。まだ新鮮な個体だ。
(o^・^o) 可愛ゆすなあ…、おまえ。
びっくりする程小さい。まるで年端もいかない小娘だ。
アクセントの尻尾も、ちゃんとある。間違いないだろう、この小娘がワンツ(タイワンツバメシジミ)だ。
これで何とか蘇生した。体はついていかないが、やる気だけは持ち直した。さあ、ロリータ狩りといこうではないか。
近くで食草のシバハギも見つかった。
多分、これに間違いないだろう。藤色の小さな花が可愛らしい。
翔んでいる環境もインプットできた。そこからはピンポイントで場所を見切って、小娘共を怒涛の勢いで短期間に生け捕りにしていった。おじさんは悪い人なのだ。
ブッシュの中を縫うようにして翔ぶので、ネットを振るタイミングが取りづらいが、慣れてしまえばどうと云うことはない。
キリシマミドリシジミのように速い、高い、止まらない、しかも敏感であるなんてことはない。所詮は、低い、遅い、トロいだ。よく草の上にも停まってくれる。
だが、直ぐにエンジンブロー。
正直、蝶を採る事よりも早く帰って休みたかった。
もうちよっとちゃんとした体調で向き合えばよかったと男は後悔した。隣の谷まで足を伸ばせばクロコムラサキが採れる筈なのだ。けれど、それも簡単に諦めた。そんなことよりも今日の宿をとっとと見つけて、一刻も早く横になりたかった。
午後1時には、喉がカラカラになり、ジュースを買いに一旦、山を下りる事にした。
しかし、再び戻る気力は一切湧かなかった。まだまだ採れそうだったが、6頭も採れば充分だろう。そもそも、男は3頭採ったら飽きると揶揄されるような飽き性なのだ。数にはあまり拘泥していない。それに今や貴重な種類の蝶だ。乱獲は慎まねばならぬ。ロリータを虐めて喜ぶような変態のオッサンには、きっと天罰が下るであろう。
日陰で、一気呵成に2本連続でジュースをがぶ飲み。地べたにへたりこんで廃人太郎。
ここに、円は何とか閉じた。
ぼんやりと男は思う。今はわからないが、今日のこの一日は後々になって、きっと忘れられない記憶として刻まれる事になるんだろうなと。
重い腰を上げ、駅に向かってゆっくりと歩き出す。
初秋の西日が、坂道をおりる男を正面から眩しく照らし出していた。
つづく
追伸
出来るだけ原文のままで発表しようと思っていたのだが、文章上、気になるところがあったので一部訂正加筆しました。
因みに、この「捕虫網の円光」シリーズが文章を書き始めるキッカケであり、原点でありんした。
確か2008年のキベリタテハの採集行の折に、己の安否を当時の彼女に知らせる為に書き始めたのだった。題名は何だっけ?『峡谷にて』とか、何か峡谷がつく題名だったと思う(未完)。だから、この九州編の前には既にそれなりの数の文章を書いている。今ざっと思い出しただけでも、沖縄本島編(秋編・真夏編)、石垣島・西表島編、与那国島編、南大東島編、北アルプス編とか、あと名作と謳われた北海道編(笑)なんてのもある。他にも日帰りの採集行の文章もわんさとある。
あっ、そういえば海外編のマレー半島~インドシナ半島縦断っていう136話にも渡る紀行文もあったよなあ。でも、それってバー経営時代に、お客さんの一部にしか配信してなかったんだよね。だから、これらの文章は分断した過去のアメブロにも掲載されていない。多分、過去文でアメブロに発表したのは、この『西へ西へ、南へ南へ』とオオムラサキの事を書いた『紫の幻光』くらいだろう。
この『西へ西へ、南へ南へ』も長い文章です。途中、退屈な回もあるとは思いますが、是非とも最後までお付き合い下さいませ。
(註1)タイワンツバメシジミの分布
近年、紀伊半島ではその生息が全く確認されておらず、四国・高知でも絶滅が囁かれているが、噂では最近四国南部(高知?)で採れたらしい。