2020’青春18切符1daytrip 第四章(1)

 
 第1話 紀州ストーカー女

 
 2020年 4月10日

午前8:19。JR難波駅発 柏原ゆきの大和路線に乗り込む。

 

 
青春18切符の旅、4日目。
期日ギリギリの、最後の1daytripが始まった。

 

 

 
天王寺駅で降り、阪和線に乗り換える。
今日は気分で南を目指すことにした。前回で、近畿地方ではギフチョウの適期はもう終わりだと実感したからね。

8:32発 日根野ゆきの快速電車に乗り込む。

 

 

 
日根野駅で、9:51発の御坊ゆき普通列車に乗り換える。
もう1時間半も電車に乗ってるのに、まだ和歌山に着かない。和歌山って、そんなに遠かったっけ❓

 

 
和歌山駅を過ぎると紀勢本線(きのくに線)に入る。
一瞬、和歌山駅で降りることも考えたが、電車は御坊まで行くんだから、そこまでは行ってみようと思った。どうせ和歌山駅から南は列車の本数がグンと減るに決まってる。行ける時に行けるところまで行っておこう。

ここから先は18切符では未知の領域だ。白浜や那智方面に行くのに特急くろしおに乗ったことは何度かあるけれど、じっくりと鈍行列車に乗って旅したことはない。特急乗車は彼女たちとの旅行だったから、イチャついてて外の景色なんてロクに見てるワケないのだ。誰と行ったか、つい数えてしまう。
たぶん3人だ。それなりに、心がキュッとなる。人生は後悔の連続だ。

和歌山駅を過ぎて暫くすると、海が見えた。

 

 
2日前にも神戸方面で見たけど、何度見ても海はいい。ずっと見てても飽きない。本来は海の人だけど、虫捕りするようになって、今やすっかり山の人だ。良かったのかなあ…。

 

 
海南市とか初島辺りだったろうか。トンネルを抜けたら、突然目の前に煙突だらけの工場群が現れた。
予測外だったので写真を撮ろうとした時には既に離れていて、奥に小さくしか写っていないけど、けっこう規模は大きそうだ。存在を知らなかったけど、さぞや夜は綺麗だろう。

気になってその場でググッたら、やっぱり凄かった。

 


(出典『工場夜景ガイド』)

 
工場の夜景を見るのは好きだ。
何か近未来的と云うか、SFの世界に通ずるスタイリッシュさがある。謂わば『ブレードランナー』とか『メトロポリス』の世界だ。

 

 
箕島駅を過ぎる。
箕島といえば高校野球の名門である箕島高校のことが真っ先に思い出される。星稜高校との延長18回に及ぶ3時間50分のナイターでの熱戦は高校野球史上最高の試合とも言われている。
箕島は首の皮一枚の二死の状況から二度もホームランで追いつき、最後にはサヨナラ勝ちするのだが、劇的な展開だらけだった。奇跡の2本のホームラン以外にも、勝利目前で星稜の一塁手が人工芝の縁に足が引っ掛かって転倒、凡フライを落球するだとか、逆に星稜は箕島のサヨナラのチャンスに三塁手の隠し玉でピンチを脱したなんて事もあったな。
そういや、この試合に勝利した箕島は、その勢いを駆って勝ち進んで優勝。公立高校として初めて春夏連覇をしたんだよね。それ以来、公立高校で春夏連覇したチームはない筈だ。
記憶が、どんどん甦ってくる。箕島のピッチャーはアンダースローの石井毅、捕手は強打で鳴らす嶋田宗彦のバッテリーだったね。卒業後、二人とも社会人野球に進み、その後プロに進み、それぞれ西武ライオンズと阪神タイガースに入団したんだっけな。対する星稜も、好投手の堅田と音がいたっけ。音も中日ドラゴンズに入ったんだな。主力としてそこそこ働いてたんじゃないかな。堅田はプロには行かなかったけれど、後に審判員となって甲子園に帰ってきた。
監督は箕島が尾藤監督で、星稜は山下監督。どちらも高校野球史の名将に讃えられている。山下監督は結局、一度も優勝できなかったけどね。
あっ、思い出したよ。バックネット裏の関係者席がガラガラだったので座って観てたら、注意されたんだよね。

『君ら、ここは関係者席やから、座ったらアカンでぇ。』

振り向いたら尾藤監督だった。もう監督を勇退して、解説者か何かで来ていたのかもしれない。優しい声が今も耳に残っている。

帰ってから、「ワシら、ビトー監督に注意されてんでー。背が思ってた以上にチッこかったわ。でも優しかったでぇー。」とか何とか周りに自慢したなあ…。
その尾藤監督も既に鬼籍に入っておられる。箕島の街に向かって、🙏合唱。

 

 
湯浅駅で、特急待ちの一時停止になった。
湯浅といえば、醤油発祥の地だ。昔の古い町並みも残っている。
だが、湯浅を車で通ったことは何度もあるけれど、観光に訪れた事はない。いっそ降りてやろうか。

 

 
車内で御坊から先の駅を確認する。
南部、田辺、白浜、周参見、串本、古座、太地、紀伊勝浦、那智と、この先も有名な観光地が続く。和歌山って、観光資産が沢山あるのだと改めて気づかされる。
そういや少し先には白い奇岩群で知られる白崎もある。スキューバダイビングの仕事で何度か訪れたが、その奇観に少なからず驚いたっけ。

でも、降りなかった。湯浅までなら、まだギリギリ日帰りでデートとかに来られる範囲内だ。この先、訪れるチャンスもあるだろう。

 

 
紀伊内原駅。
御坊の一つ前の駅で、又しても危うく降車しそうになる。
駅舎に味があって、何か引き寄せられるものがあったのだ。
でも御坊まであと一駅だったので、グッと踏み堪えた。ここで降りても何にもないだろうし、次の電車がすぐに来るとは思えない。一方、御坊駅まで行けば選択肢は複数ある。そのまま次の列車に乗り継ぐのは勿論の事、紀州鉄道に乗り換えることだって出来るし、降りて昼飯を食うと云う手だってあるのだ。

 

 
午前11時。
御坊駅で下車すると、既に乗り継ぎの電車が待っていた。

 

 
御坊も観光に来たことがないから迷うところだが、特に有名な観光地は無かった筈だ。そのまま11:03発の紀伊田辺ゆきに乗り継ぐことにした。

 

 
今までずっと同じタイプの車両だったが、やっと違うデザインの列車になった。

 

 
見ると、表示はワンマンとなっている。
いよいよ、ローカル感が出てきましたなあ。

 

 
だが乗ったはいいが、次の道成寺駅で発作的に降りてしまった。

 

 
駅は無人駅だった。
寂しくはあるが、それはそれで悪かない。
古びた平仮名のブリキみたいな柱用駅名標には似つかわしい。

 

 
道成寺といえば、紀州一の古拙であり、安珍・清姫伝説の寺として有名だ。
能や浄瑠璃、歌舞伎の演目として名高い『道成寺』『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』『娘道成寺』の舞台となった場所なのだ。
僧の安珍に思いを寄せていた清姫が、裏切られて激怒のあまり大蛇に変化(へんげ)して追い掛け、道成寺で鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺すという物語だ。
けど、それだけ有名な寺にも拘らず、一度も訪れた事がない。その事に気づいて急遽、えいや❗と飛び降りたのだった。

 

 
まだ4月の前半なのに、もう藤の花が咲いてるんだね。
南だから、より季節が進んでいるんだろうね。

 

 
参道に入ってすぐ、「ニューふくすけ」なる店があった。

 

 
入口の素っ気ないダサさに、一瞬ひるむ。

 

 
しかし、こんな寂れた所では選択肢はそうない。短い参道の先は土産物屋ばかりに見える。
腹がとにかく減ってるし、ハズレもまた一興だと思って入ることにした。

入った横手に漫画本が沢山並んでた。こうゆう大衆的な感じの店って嫌いじゃない。本宮ひろ志の読んだことない漫画(註2)を持って席に座る。
ふらっと地元の店に入るこうゆうシチュエーションって、自分的には寧ろ旅情感があって好きなんだよね。旅の流れに素直に身を任せるのは、どこか心地良い。

メニューを開く。
 
 

 
思ってた以上にメニューが多い。そこが地元ならではかもね。
何でも作りますが、地元ニーズなのだ。
一瞬まごつくが、こうゆう時は素直であるべきだ。店員さんを呼ぶ。で、オバちゃんにお薦めを訊いた。
したら、チャンポンだと言わはるので、それに素直に従うことにした。この期に及んで自己主張なんていらないのだ。ここは柔軟に人の意見を聞くのがハッピーになるコツだ。経験上、それが正しいことの方が多いと知っているのだ。歳を喰うのも悪いことばかりじゃない。経験は正しい道筋を教えてくれる。

 

 
運ばれてきたのを見て、二重に引く。
器から溢れんばかりだ。その半端ない量に驚き、ちゃんぽんといえば長崎チャンポン的なものを想像してたから、餡かけ系茶色のピジュアルにも驚く。もう、想像してたものとは全然違う代物なのだ。衝動的にオバちゃんを呼び戻しそうになったよ。

具材はキャベツ、キクラゲ、人参、タケノコ、青ネギ、もやし、豚肉ってところだろうか。これで660円なんだから値段にも仰天だ。もし食べて死ぬほどマズかったら4重に驚きだなと半笑いで割り箸を割る。

 

 
箸で下から持ち上げるように混ぜたら、重っ❗ 麺がなかなか出てこない。
餡は粘り重め。であるからにして熱々だ。そして麺は細め。熱々の餡と絡み合っておる。チャンポンの概念を根本から破壊されたよ。食いきれんのかよ、コレ❓

食ってみると普通に旨い。誰が食っても旨いと云う安心、安全レベルの味だ。或る意味では、こうゆうのが個々人の究極の美味だったりもするのではないかと思う。旨い旨くないかは記憶とも連動する。地元でガキの頃に食ってたものって、大人になっても旨いと感じるからね。幼少期に過ごした町の、今は亡き肉屋のジャガイモとウィンナーのフライは有名で特別なものではなかったが、生涯において記憶の中で生き続けてゆくのだろう。ガキの頃、ホント好きだったもんなあ…。個人的には極めて特別なものだったのだ。

過去の思い出に日和っている場合ではない。この、人を怯ませるような大盛りは謂わば挑戦状みたいなものだ。だったら逃げるワケにはいかない。プライドが許さぬ。他人にとってはどうでもいいような小さな領域での、己のプライドを賭けた戦いが始まった。

(-_-;)……。
でも、食っても食っても減らない感がある。マジに手強い。
だが、ここで白旗をあげるワケにはいかない。根が真面目なゆえ、残すのは店の人にも悪いと思っちゃうんだよね。トランザム❗根性モードに、ギアONだよ。

 

 
麺を食いきったところで、ようやくフィナーレが見えてきた。
あとは人格崩壊の逆流噴射しないことに気をつけつつ、勝利に向けて確実に躙(にじ)り寄っていこう。

 

 
(´ω`)ふぅ〜、何とか食いきった。
でも、もう腹パンパンである。汁はスマン、(ㆁωㆁ)飲めましぇーん❗

店を出て、道成寺へと向かう。

 

 
横に何か七不思議的な立て札があった。
七不思議とゆうからに、あと6つこうゆうのがあるって事ね。

 

 
中々に立派な山門だ。
両側には、ちゃんと仁王様(金剛力士像)がおる。阿吽像だ。

 

 
口が開いてるから、阿形(あぎょう)様みたいだね。

 

 
コチラは口を閉じておられるので、吽形(うんぎょう)様だ。
えー、「阿吽の呼吸」の阿吽とは、こっからきてます。

ここにも立て札があった。

 

 
ふ〜ん。解ったような解らないような心持ちで境内に入る。

 

 
正面に本堂がある。
立て札のとおり山門と一直線に配置されている。
まあ、どこの寺でもそうだけど。

 

 
左手に、花の盛りは過ぎたが立派な桜があった。
近づいてゆくと、一陣の風が吹いて桜吹雪になった。風の悪戯に頬をゆるめ、佇んで空を仰ぐ。青空を背景に淡いピンクが舞い上がってゆく。
桜の樹ってのは、散るさまも美しい。改めて、こんなにも日本人に愛されてる理由がよく解る。今の日本人に、どこまであるかはわからないが、日本の文化の根底には美意識が強くある。美を見極める能力と、そこに「ものの哀れ」を感じ、自らの美意識と重ね合わせてきたのが日本人なのだ。今の政治家とか見てると、とうにそうゆう美意識は失われているのだと思わざるおえないけど。桜が散るが如く潔さが、まるでない。

 

 
一方、本堂横の枝垂れ桜は、とうに散ってしまっている。

 

 
そして、早くも八重桜が咲いていた。

 

 
本堂の奥には、千手観音が安置されている。

 

 
改めて伝説について説明しよう。
安珍・清姫伝説とは「道成寺縁起」とも呼ばれる天台宗道成寺にまつわる平安時代の伝承にして仏教説話。若き僧安珍と清姫の悲恋と情念を主題としており、能、歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)を筆頭に映画、小説、絵本など様々なジャンルの題材にされてきた話である。

安珍清姫の伝説の原型は、説話として古くは平安時代の『大日本国法華験記(法華験記)』『今昔物語集』に登場する。

時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)の夏の頃の事である。
奥州白河より熊野に参詣に来た若い僧がいた。この僧は名を安珍といい、大変な美形であった。旅の道すがら、紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路:熊野街道沿い)真砂の庄司清次の家に宿を借りた。清司の娘、清姫は安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後に立ち寄ることなくさっさと逃げてしまう。
信じて待ちわびていた娘は、騙されたことを知って怒り、裸足で追跡、道成寺までの道中で追いつく。安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ねる。更には熊野権現に助けを求め、清姫を金縛りにした隙に逃げ出す。ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂には大蛇となりて安珍のあとを追う。
安珍は日高川を渡り、渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んで道成寺に逃げ込む。しかし蛇と化した清姫は、火を吹きながら自力で川を渡って来る。慌てた安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に隠れる。しかし清姫は鐘に巻き付き、やがて最後には業火で鐘ごと焼き殺してしまう。そして蛇の姿のままで川に入水自殺する。
その後、畜生道に落ちて蛇に転生した二人は、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と法華経の有り難さを讃えて終わる。
つまり、この話は法華経の力の喧伝を目的として作られたものと考えられている。ちなみに安珍・清姫伝説の内容については伝承によって相違があり、多くのバリエーションが存在し、その後日譚もある。

安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。二度目の鐘が完成した後、女人禁制で鐘供養をしたところ、女人禁制の場であるにも拘らず、一人の美しい白拍子(註3)が現れる。

 
(葛飾北斎の描いた白拍子)

(出典『Wikipedia』)

 
白拍子は優雅に舞い歌う。そして周りがそれにうっとりとしている隙をみて梵鐘の下へと飛び込む。すると鐘は音を立てて落ちた。慌てた僧たちが祈祷すると、やがて鐘は徐々に持ち上がり、そして中から現れたのは蛇体に変化(へんげ)した姿であった。白拍子は清姫の怨霊だったのである。蛇は男に捨てられた怒りに火を吹き暴れ、鐘供養を妨害しようとする。清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心不乱に祈念したところ、その祈りに大蛇は堪えきれず、やがて川に飛び込んで消える。
そして、ようやく鐘は鐘楼に上がるのだが、清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上に、付近に災害や疫病が続いたために山の中へと打ち捨てられた。
この後日譚をモチーフに作られたのが、能の『道成寺(どうじょうじ)』である。さらにこれを元にして歌舞伎の『娘道成寺』や浄瑠璃(文楽)の『日高川入相花王』、琉球組踊の『執心鐘入』などが作られた。
そういや、三島由紀夫の『近代能楽集』の中にも、この話を下敷きにした「道成寺」と題した短編があったな。
また上田秋成の『雨月物語』の中に『道成寺』を礎にしたと思(おぼ)しき『蛇性の婬』と言う話が載っている。

後日譚は、まだある。
さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来(ねごろ)攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用いた。そして、そのまま京都へと鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くために顕本法華宗の総本山である妙満寺に納めたという。鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題し、かつて道成寺にあった件(くだん)の鐘が、石燕の時代には妙満寺に納められていることが述べられている。

 

 
二代目の鐘楼跡とゆうことは、今は三代目の鐘なのかな❓と思って探してみた。だが現在、この寺には鐘楼は無いようである。

 

 
とゆうことは、二代目以降、現在に至るまで何百年も鐘は無かったとゆうことか…。
後日調べたら、訪れて寺に鐘が無いことにガッカリする人が多いという。その気持ちも解らないでもない。自分も少しガッカリしたからね。でも、新たな鐘がまた清姫の怨霊を呼び寄せるかもしれないと考えれば、新調はできないよね。この現代社会においては、そんなの迷信すぎないと思うのは簡単だ。けれども、ここは故事を信じ、歴史って色々あって面白いと思う方が愉しい。古(いにしえ)に心を飛ばして、あれこれ想いを泳がすのも悪かない。

 

 
三重の塔の右横に写っているのは、安珍塚だ。
ここで安珍が焼かれたという。
にしても、何やらスゴいことになっている。木が蛇の如くノタ打ち回ってるようにも見えるし、清姫の怨念が昇華した姿にも思える。
見切れてるけど真ん中に安珍塚と彫られた石碑が建っていて、その傍には三代目らしき榁の木の生木がある。
けど、この画像じゃな。しゃあない。画像を探してこよう。

 

(出典『Wikipedia』)

 
立ち枯れた木は、榁(むろ)の木(註4)だそうである。あまり耳馴れない木だ。
初代の榁の木は約600年間生きた後に枯れ、二代目は約400年間生きて枯れたという。榁の木は枯れると「蛇榁」とも呼ばれるようで、ここに安珍と鐘が埋められていると伝えられているのも解る気がするよ。

 

 
あらら、安珍塚の下に鐘が埋まってるんじゃなくて、ホントは此処だったのね。にしても、どこまでが伝説でどこまでが史実なの❓
何だか頭の中がグチャグチャになってきたよ。

その隣には、姥桜の事と文楽の『日高川入相花王』について書かれてあった。

 

 
これを見て、ふと小学生の頃に講堂で文楽を見させられたのを思い出したよ。
アレ、驚いたよなー。めちゃんこ怖かったし。

 

 
コレが、突然コレですもん。

 

(出典『遊民悠民』)

 
小学生の度肝を抜くには十分だろう。

 

(出典『関西文化.com』)

 

(出典『bokete』)

 
インパクト、半端ないよね。

 
(護摩堂)

 
他の建物も謂れがありそうだ。
だが、もうチャンポン並みにお腹いっばいだ。深堀りするとロクな事がなさそうだ。触れずにおこう。

 
(稲荷神社)

 
足元に目をやる。
瓦を埋め込んだ敷石が美しい。

 

 
山門まで戻ってきた。

 

 
寺を辞する。

 

 
階段の先に参道が真っ直ぐに続いている。
こうゆう風景は好きである。旅情だ。心が何処までも伸びやかに翔ける。家々の趣きは違うだろうが、何百年前と基本的にはあまり景色は変わってないような気もする。少なくとも構図は同じだろう。

 

 
参道で清見オレンジと白干しの梅干しを買った。
どちらも紀州の名物だから、つい買ってしまった。
後日食ったら、両方とも🎯当たりだったけどもね。

駅まで戻ってきた。

 

 
駅舎に入って驚く。

 

 
行きは気づかなかったが、駅舎の上部には、こんなもんが掛かってたんだね。シュールだ。上から4番目なんて、謎の物体だ。清姫ちゃんの歪な心を具現化したものなのか❓全般的に可愛いんだか不気味なんだかよくワカンナイ(註5)。

プラットフォームにも変なもんがあった。
コレって、ヤバくなくね❓

 

 
掲示板らしいが、何も貼ってなくて不気味な青いシミがある。一瞬、清姫の怨霊が現代に甦って、その怨念を転写させたのではあるまいかと思ってギョッとしたよ。

そして、向かい側のプラットフォームには、別な不気味な絵もあった。

 

 
こっちはこっちで怖ぇ(Ⅲ  ̄(エ) ̄ )…。
特に2枚目の追っかけられてるのはヤバいよね。着物の上が蛇だけでも恐ろしいのに火を噴きながらで来られるなんてシチュエーションは絶対に泣くな(TOT)
清姫、どう見てもイカれポンチのストーカーじゃないか。だいたい、男がチラッとサービストークしただけで蛇になってまで追いかけ回すかね❓
流れでつい、我がの過去を振り返る。女性に追いかけ回された事は何度かあるけれど、幸い怨霊とか蛇にまでなられた事はない。キワキワの寸前ってのはあったけどね(笑)。
( ゚д゚)ハッ❗いや、笑い事じゃないぞ。見た目こそ蛇には化身していないが、心は修羅になってたと思(おぼ)しき例はある。一歩間違えれば、刺されてた可能性だってあったのだ。
彼女から、おかしなメールがあった。内容までは憶えてないけど、とにかく尋常でないメールがあって、仕事中にも拘らず慌てて彼女の部屋へ行った。
合鍵でドアを開けたら、暗い部屋に彼女が佇んでいた。顔が能面のように無表情で、本能的にこりゃヤバいと思って抱きしめた。彼女を宥め、同時に動きを封じるためである。
彼女の体には手応えが無かった。心が空っぽなのだ。
恐怖を感じた。そして彼女が潮来(いたこ)の孫娘であることを思い出した。今が空っぽの状態ならば、いつ何どき別人格が憑依するとも限らない。悪鬼に豹変して、もしかしたら刺されるかもしれないとマジで思った。
様々な考えが高速で頭の中を駆け巡る。明らかに異常な状態にパニックになりそうだった。だが、パニックは何としてでも避けねばならない。そうなれば、窮地から脱け出すは出来ないだろう。
抱き締めながら、冷静に包丁のある場所を反芻する。
確か台所の抽斗(ひきだし)にあった筈だ。問題はどうやってそれを排除するかだ。しかし、どうすればいい❓
その時だった。

『大丈夫。刺さないから。』

ギクリとした。
心が読まれていることに戦慄した。何が起こっているのだ❓
と同時に安堵も少しあった。刺されないのか❓待てよ、それは刺すという事も考えてたって事なのか❓再び頭の中がパニックになりそうになる。その言葉をどこまで信じていいのかはワカラナイ。安心させといてブスリといかれるかもしれない。メチャメチャ、彼女は頭がいいのだ。罠かもしれない。

出来るだけ平静を装って言った。

『何言ってんだよー。おまえさんが俺を刺す理由なんてないじゃないかあ。もー、心配させんなよー。』

そう言って、強く抱き締めた。
彼女の体に少し生気が戻った。その期を逃さず、体を起こしてニッコリ笑いながら頭を撫でてやった。
彼女の顔に表情が戻り、少し笑みが溢れた。
この時ほど、昔に役者をやってて良かったと思ったことはないよ。我ながら名演技だ。

体を解くと、彼女は急に『おしっこ、行きたくなった。』と言ってトイレに向かって歩き出した。
一瞬、そのスキに逃げ出そうかとも思った。しかし、それでは折角おさまりかけてる事態を再び悪化させかねない。しかも、もっと酷い状態に。
いや、或いはあの笑顔の裏には何かが隠されていたのかもしれない。事態は全然もって収拾してない可能性だってあるのだ。ならば、帰り際に背中からブスリといかれかねない。
トイレのドアが閉まったと同時に、音を立てずに素早く台所へ行く。自ら運命を切り拓かねば、危機は脱せられないと判断した。電光石火で抽斗を開けて包丁を取り出し、布巾に巻いて流しの下に放り込んだ。これで、たとえ彼女が刺したくとも直ぐには刺せない。探す間の時間が稼げる。もし彼女がエスパーならば、それも読まれて無駄だけどね。いや、抽斗よか数秒は稼げる。その数秒が運命を分かつかもしれない。100メータを12秒フラットで走れた男だ。ロケットダッシュすれば、何とかなる筈だ。

彼女がトイレから出てきた。まさかトイレに包丁を隠してたとかないよね❓緊張感が増す。

彼女の顔は普段に戻っていた。
それを見て、機を逃してはならぬと『俺、仕事に戻るわ。人、待たしてるし。』と言った。
そっから後の記憶はない。おそらく全集中で背中に神経を巡らせて部屋を出たのだろう。

他にも裏で悪鬼になってた女性はいるかもしれない。
そう考えると、紙一重の事だって無いとは言えない。
つくづく、安珍みたく焼き殺されなくて良かったよ。今のところだけど…。

                      つづく

  
追伸
驚いたのは、Wikipediaでググッたら、駅のプラットフォームの絵が違う絵だったことだ。

 

(出典『Wikipedia』)

 
一年に一回とか、絵を掛け替えてるのかな❓
にしても、どちらも色褪せてて相当に古いもののように見える。謎だ。

 
(註釈1)特急くろしお
主として新大阪駅(一部京都駅発)〜新宮駅間を走る特急列車。
停車駅は、新大阪、天王寺、日根野、和歌山、海南、御坊、紀伊田辺、白浜、周参見、串本、古座、太地、紀伊勝浦、新宮。
一部の列車が西九条駅、和泉府中、和泉砂川、箕島、藤並、湯浅、南部の各駅にも停まるようだ。

 
(289系)

(出典『Wikipedia』以下、同)

 
6代目になるのかな?…、現在はこの289系が走っているようだが、自分の中での「特急くろしお」のイメージはコレかな。

 
(485系)

 
2代目である。
ちなみに初代はこんなん。

 

 
2代目は初代のカラーリングを継承しているんだね。
以下、3代目から5代目までを並べておく。

 
(381系)

 
(283系)

 
上は、いわゆるオーシャンアローと呼ばれていた車両だ。
下は、たぶん貫通型だね。

 
(287系)

 
下は🐼パンダ仕様だ。白浜アドベンチャーワールドにはパンダがいるからね。しかも沢山。マジでイッパイおる。しかも客は多くないから、ゆっくり見られる。上野なんかに行くならば、金使ってでも白浜に行く方をお薦めする。
ちなみにパンダの本当の眼はタレ目ではない。真ん中は完全にクマ目でしゅ。この電車みたく、笑ってねーからな。

 
(註2)本宮ひろ志の読んだことない漫画
『まだ、生きてる…』のこと。


(出典『manga‐diary.com』)

 
バカにされながらも38年間コツコツと家族のために働いて来て定年を迎えた60歳のサラリーマン岡田憲三が家に帰ると、家族が消えていた。妻は全財産を持ち逃げし、息子や娘とも音信不通となる。この仕打ちに生きることに未練も希望も失くした岡田は、自らの人生の幕を閉じようと故郷の山奥で首吊り自殺を図る。だが、木が折れて命拾いする。そこからオッサンの山中でのサバイバル生活が始まり、オッサンの生き方が180度変わってゆき、人生も変わってゆくというお話。
本宮ひろ志らしく、途中からどんどん破天荒な展開になってゆく。本宮ひろ志の作品って、話のスケールがデカくてロマン溢れるものが多い。だから惹かれる。でも風呂敷をデカくし過ぎて尻すぼみになる事も多いんだけどね。この作品は最後まで尻すぼみにはならないから、隠れた名作とも言われているようだ。

 
(註3)白拍子
平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人、遊女。

 
(註4)榁(むろ)の木
ネズ、ネズミサシ(杜松、学名: Juniperus rigida)の古名のこと。
ヒノキ科ビャクシン属に属する針葉樹で、他にムロ、モロノキの別名かある。

 


(出典『庭木図鑑 植木ペディア』)

 
杉とか桧みたいだね。

英名は、temple juniper、needle juniper。
訳すと『寺のジュニパー』『針の如きジュニパー』。
ところで「juniper」って何だっけ❓聞いたことがあるぞ。たしかジュニパーベリーって言葉があったよな。
(☉。☉)!あっ、蒸留酒のジンだよ。あのジントニックとかジンライムのジン。その独特の香りづけにジュニパーベリーが使われてた筈だ。杜松(ねず)の実とも書いてあった。ならば、間違いなかろう。
確認したら、✌️ビンゴだった。ヨーロッパのものは、セイヨウネズノミとあった。

余談だが、和名はネズの硬い針のような葉をネズミ除けに使っていたことから。「ネズミを刺す」という意で「ネズミサシ」となり、それが縮まったことに由来する。
も一つ余談だが、樹齢600年とか400年といってるわりには小さな木だなと思ってたけど、この榁の木ってのは元々が低中木で、バカみたくはデカくならないそうである。

 
(註5)駅舎の安珍と清姫伝説の絵
最初は地元の小学生とか中学生が描いたのだろうと思ったが、よくよく見るとプロっぽい。調べてみたら、島嵜清史氏という宮崎県を拠点に活動しているアーティストの作品でした。

 

青春18切符oneday-trip春 第一章(3)

第3話 我もまた旅人なり

 
福井の鯖江に向かうか、敦賀に戻るか迷った。

 
しかし、鯖江に行ってしまえばノスタルジーに呑まれてしまうだろう。下手したら昔の記憶を辿って学生時代の彼女の実家を探して徘徊しかねない。でもそれを見つけたところで、どうするというのだ❓
まさか呼び鈴を鳴らして『娘さんはお元気でしょうか?』と訊くわけにもいくまい。そんなの完全にイカれポンチのサイコ野郎だ。それに滞在時間はそうも取れないだろう。

敦賀まで戻って来るのにも時間的不安がある。電車の本数は少ないだろうから、街なかで迷いでもすればドツボにハマること必至。駅で何時間も待つ破目になりかねない。当然、あとの予定はグチャグチャになる。
それはマズい。今日の一番の目的は他にあるのだ。そこを忘れてはならない。
後ろ髪を引かれるところはあるが、敦賀に戻ることにした。

午後3時47分の電車に乗る。
再びあの長い長いトンネルを抜け、4時過ぎに敦賀駅に着いた。

前々回に書き忘れたが、此処は去年に昔の彼女と短い時間だが訪れている。
小鯛の笹漬けで有名な「丸海」で、真鯛の昆布〆を買って食ったんだけど、アレはマジで死ぬほど美味かった。

 

 
丸海の小鯛の笹漬けは基本的には連子鯛(レンコダイ)を使っているのだが、季節限定で真鯛でも作られている。そして、これは昆布〆にしてあるのだ。
でも値段が高いんだよなあ。千円以上は優にしたと思う。まあ、お金は元カノが払ったから、偉そうなことは言えないんだけどもね。

 
商店街に向かって歩き始めると、こんなんがあった。

 

 
『銀河鉄道999(スリーナイン)』のメーテルと星野鉄郎やんか。

 

 
そして、『宇宙戦艦ヤマト』の古代進と森雪。

この2つの銅像は漫画家 松本零士の代表作だ。若い人でも名前くらいは知っているだろう。
2作品とも勿論アニメで見ているが、特に強い思い入れがあるワケではない。なのに両方とも主人公の名前がスラスラと出てきた事に我ながら驚く。昭和の記憶は鮮明なのだ。

他にも関連する銅像が続々と出てきた。
それで漸く貰った地図を真面目に見た。

 

 
ちゃんと各銅像の位置まで記されているじゃないか。
地図が細か過ぎて目に入らんかったわ。

順不同だが、他のモノも並べておこう。

 

 
このジジイは、たぶんヤマトの乗組員で軍医さんだ。
ジジイ、酒ばっか呑んでるんだよね。たしかメチルアルコールと何かを混ぜて、そのカクテルに「ヤマト」とか名付けて喜んでた記憶がある。完全に重度のアル中じゃないか。今の時代だったら、コンプライアンス的に間違いなく問題視されていただろう。改めて昭和って、おおらかで良い時代だったよな。それが今や、ホントつまんない時代になった。人の揚げ足ばかりチマチマ取って何が楽しいのだ❓不倫なんて他人がとやかく言う問題ではなかろう。何だか陰湿で暗い時代になったよね。クレイマーが正義をかざして闊歩する時代に幸せなどありはしない。最近の世の中、何だか相互監視がキツイわ。勝手に皆で社会主義やってる変な国になっちまってねえか❓

 

 
雪とアルフォン。

 

 
(☆▽☆)おー、スリーナインの車掌さんじゃないか❗
怪しく見えるが、本当は真面目でいい奴なのさ。
 

 
スッカ、スッカやんけ(ノ`Д´)ノ彡┻━┻
機関車を、ものすごーく簡単に意匠化しちまってる。
そもそも機関車には重厚さがないといけんやろが❓
期待してただけに、ベリー残念。

 

 
このポーズ、何か粋(イキ)ってて腹立つわー。
鉄郎って、チビでアホだから嫌い。💢イラッとくる。

 

 
メーテルに優しくされてるのも気に入らん。

 

 
メーテルは美人さんだよなあ。理知的でミステリアスなところが良い。松本零士作品に登場する女性はワシ好みの美人が多い。昔からクール・ビューティーは好きなのだ。

他にも沢山の銅像があるみたいなのだが、もう画像はない。
なぜなら、現在北側の商店街は道路の拡張工事中で、撤去されておったのだ。
ところで、何でもう一つの代表作『キャプテン・ハーロック』の銅像は無いのじゃ❓

それはさておき、敦賀は松本零士の生誕地だとか、この土地と何か深い関係があるのかと思いきや、そんなことは駅の観光案内所にあるパンフ等には一言も書いてなかったぞ。もしも生誕地だったら、もっと前面的に押し出している筈だもんね。
ではナゼに敦賀にこんなもんがあるのじゃ❓

気になるのでググると、敦賀商工会議所のホームページに、その由来が書いてあった。

『かつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした。1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置しました。』

なるほどね。ヤマトもスリーナインも旅の物語でもある。
にしても、理由としては弱くねえか? 他にも外に向かって開かれていた港はあるだろうに。
こんな微妙な理由で、よく松本零士先生も承諾したよな。

さらに足を伸ばして「氣比神宮(気比神宮・けひじんぐう)」へと向かう。
かなり有名な神社だが、敦賀には何度か来ているのにも拘らず、一度も訪れたことがない。
午前中に敦賀駅で次の電車待ちしていた時に、これは若しかして良い機会ではないかと密かに思っていた。人にせよ、土地にせよ、出会いにはタイミングというものがあると思う。

そう云うワケだから、電車の中で事前に Wikipedia で大まかな事を学習しておいた。

一部編集、抜粋しておこう。

『敦賀は天然の良港を有すると共に、北陸道諸国から畿内への入口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
創建は飛鳥時代で「古事記」「日本書紀」には早い時期から神宮についての記事が見られる。特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担っていた。また、中世には越前国の一之宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県にまで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。』

 

 
狛犬の背後の紅枝垂れ桜が美しい。

 

 
この大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つで、国の重要文化財にも指定されているようだ。
因みに他の2つの大鳥居は、広島の「厳島神社」と奈良の「春日大社」に有るんだそうな。それって両方とも世界遺産じゃね❓ 格式高けっ❗凄いぞ、GoGoー❗気比神宮。
その2つとも行ったことあるから、コレで日本三大木造大鳥居をタナボタ的にいつの間にか制覇じゃい❗

 

 
見事なまでの朱塗りの鳥居だ。
色が通常目にする鳥居のような明るい朱色ではない。見たことのない暗めの渋い朱色なのだ。それがどこか厳かさを醸し出している。正直、普通の朱塗りよか(☆▽☆)渋カッケー。

 

 
中に進むと、もう一つ鳥居があり、その向こうに本殿がある。

 

 
本殿は静かだった。
境内には誰もいない。時間が死んだように止まっている。
その静寂を破って柏手(かしわで)を打つ。空気が震え、音が奇妙なほど強調されて辺りに響く。
目を閉じ、心を無にする。何も願わない。最近はそうする事が多い。どうせ願い事なんぞしても、叶えてはくれまいと思うからだが、何だか心が落ち着くので気に入っている。
無心で、手を合わせる。再び静寂に包まれる。

東側の出口から出ると、驚いたことに目の前の風景は拡がらなかった。まさかの、それで社域は殆んど終わりだったのだ。ズッコケるくらいに簡単に見渡せる。社林も有るには有るものの、想像していたよりも遥かに狭い。勝手に広大な境内を想像してたから拍子抜けする。格式ある神社にしてはショボくねえか❓
けんど、そこで Wikipediaに書いてあった記述を思い出した。
社殿の殆んどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建だとか書いてあったわ。空襲を免れたのは大鳥居など一部だけだったらしい。
ならばと起源を調べたら、現存するこの鳥居が造営されたのは、何と西暦1645年なんだそうな。マジか❓、計算すると385年間も此処に建ってるって事じゃないか。それって、理屈抜きにスゲーや。

そう云えば、ウィキには松尾芭蕉とも縁(ゆかり)があり、「奥の細道」の旅で此処を訪れたとも書いてあったな…。

何気に振り返ると、実際に境内の端に芭蕉の銅像が建っていた。偶然でも何でもないのだろうが、タイミング良すぎて驚く。

そのせいなのか、何故だか写真を撮り忘れたので、他から画像をお借りしよう。

 

(出典『芭蕉が見た風景‐奥の細道を歩く‐』)

 
この下の台座には、俳句も刻まれていた。

「月清し 遊行のもてる 砂の上」

芭蕉翁が此処を参詣した際に詠んだ句だ。
前述したように「奥の細道」での旅の折りで、江戸時代の1689年(元禄2年)の事だったようだ。
w(°o°)wゲゲッ❗、って事はワシが見た鳥居と同じ鳥居を芭蕉様も見たってワケか。それって、スゴクね❓ 時空を飛び超えたような不思議な感覚を覚える。芭蕉翁との距離がグッと狭まり、同じ時間軸にいるような気がした。

句を意訳すると「月が清らかな光を放っている。歴代の遊行上人が持ち運んだと聞く神前の白砂の上に、その月の光が美しく射している。」といったところだろうか。

この句に関しては、少々の補足説明が必要だろう。
前提に芭蕉が、この地での月見を殊の外楽しみにしていたと云う事がある。
『奥の細道』を紐解こう。

満月の前夜、この日は美しい月が昇っていた。
宿の主人に「明日の十五夜もこんな素晴らしい名月が見られるでしょうか?」と尋ねると、主人は「北陸の天気は変わりやすいから、明日の夜が晴れるか曇るかは分からないよ。」と答え、酒を勧められた。
そして、氣比神宮の古事を聞かされる。
「その昔、二世遊行上人が神宮付近の葦を刈り、土砂を運んで水溜りや泥濘を埋め、参詣者が楽に歩けるようにと参道を改修されました。そのおかげで今は参詣に行き来するのに全く困ることが無くなったのです。それ以来、その古事を伝える伝統行事が続いていて、今でも歴代の上人が神前に白砂をお運びになっております。これを、この地では「遊行の砂持ち」と呼んでおりまする。」と。

その後、宿の主人に奨められて氣比神宮に夜の参拝に出かけた。芭蕉翁はその時のことを、こう書いている。
「境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の木々の間からは月の光が洩れている。神前の白砂には月光が射しており、一面に霜を敷いたように見えた。」
季節は秋で、この句の季語は「月」。ようは中秋の名月だったってワケだ。

境内には他にも句碑があって、画像の芭蕉像左奥の歌碑に5つの句が刻まれている。その一つが、この話の後日談みたいになっている。

翌日、翁は日本三大松原(註1)の一つである気比の松原に出掛ける。しかし、やはり宿の主人の言ったように天気は崩れた。勿論、月の姿は隠れて見えない。その時の句がコレである。

「名月や 北国日和 定なき」

訳すと「今宵は中秋の名月を期待していたが、変わりやすい北陸の天気に、生憎(あいにく)なことに雨になってしまったよ。」といったところか。

この句碑の残りの4句の一つは、「月清し…」である。
あとの3句も記しておく。

「國々の 八景更に 氣比の月」
「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」
「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」

何れも月を詠んだ句だ。
真面目に「奥の細道」は読んでないけれど、芭蕉は月に特別な想いを抱(いだ)いていたのかもしれない。

翁は敦賀で、他にも句を詠んでいる。

「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」
「衣着て 小貝拾わん いろの月」
「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」
「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
「中山や 越路も月は また命」
「月のみか 雨に相撲も なかりけり」

結構な数を詠んでるんだね。

つけ加えておくと、前回ギフチョウに会いに訪れた今庄の山中にある燧ケ城跡でも、芭蕉は句を詠んでいる。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

この城跡は南北朝時代の古戦場で、そこで木曽義仲に思いを馳せて詠んだ句なんだそうだ。芭蕉が立ったであろう、あの山城に自分も立ったかと思うと、今さらながらに感慨深いものがある。
そっか…、急峻な山だったのは、攻められ難(にく)いところに築城したからなのかもしれない。

ふと思う。そう云えば奥の細道の旅は次の大垣で終わる。
ようは敦賀への来訪は旅の終わり近くだったワケだ。翁が月に拘った気持ちが分からないでもないような気がしてきた。長い旅の終焉が近づくと、人は複雑な気持ちになるものだ。そして、愛惜しむように良き日々を過ごしたいと思う。

 
来た道を引き返す。

 

 
鳥居の向こうに夕陽が沈んでゆく。

 
       旅のそら
       古き社(やしろ)に
       春の夕

 
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
我もまた漂泊の想い、いまだ止まずである。

そろそろ、目的の場所を探さねばならない。

 
                        つづく

 
追伸
下手な駄句でクローズしてまって、すいやせん(´д`)ゞ
才能が無い奴だと笑って、何卒そこは目をつぶって戴きたい。

この日の話は、まだ続く。
当初の構想を超えて思いの外に長くなってきているので、この際タイトルも手直しした。相変わらずの出たとこ勝負で書いている人なのだ。毎度の事ながら、最初の構想が雑すぎるんだろね。

 
(註1)日本三大松原
気比の松原に、三保の松原(静岡県清水)と虹の松原(佐賀県唐津)を加えて日本三大松原と称される。気比の松原をハズして、天橋立の松原とする向きもあるようだ。まあ、どっちだっていいけど。だって三保の松原も虹の松原も、そして気比の松原も一度だって見た事がないのだ(天橋立の松原は行ったことがある)。美しい松原のイメージが希薄なんだから、比べようがないのである。