紅テントの胎内宇宙

 
2月16日、NHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ〜運命の分岐点〜」で、『越境する紅テント~唐十郎の大冒険~』と題して唐十郎と紅テントのことが取り上げられていた。

 


(出展『ステージナタリー』)

 
唐十郎を知らない人もいると思われるので、解説しておく。
1940年東京生まれ。劇作家、作家、演出家、俳優、横浜国立大学教授。
21歳で舞踏家 土方巽の門下生となり、その後、劇団「状況劇場」を旗揚げ、現在は劇団「唐組」を主宰。全国各地で紅テントでの公演を続けている。

 

(出展 NHKBSP『アナザーストリーズ』)

 
「少女仮面」で岸田国士戯曲賞、「海星・河童」で泉鏡花文学賞、「佐川君からの手紙」で芥川賞、「泥人魚」で紀伊國屋演劇賞、読売文学賞、鶴屋南北戯曲賞を受賞した。
主な著書に「ベンガルの虎」「夜叉綺想」「蛇姫様」「秘密の花園」などがある。
そして、その作品は今も数々の名優や蜷川幸雄などの名演出家たちによって上演され、刺激を与え続けている。

でも大鶴義丹のトーちゃんで、『北の国から 2002遺言』のトド撃ち名人の豪快なオヤジ役を演じた人といった方が解りやすいだろう。純(吉岡秀隆)が好きになる結(内田有紀)の旦那(岸谷五朗)の父親っていう設定だったかな。
しかし演劇界では唐十郎といえば、寺山修司(註1)の天井桟敷と共にアングラと呼ばれた前衛演劇の代表的存在であり、世間を騒がす武闘派というイメージがある。
唐十郎の喧嘩武勇伝については枚挙に暇がない。1968年、金粉ショーなどで紅テントの公演は話題を呼ぶが、公序良俗に反するとして新宿の地元商店連合会などから排斥運動が起こる。やがて新宿・花園神社での上演も出来なくなり、無許可で新宿西口中央公園にゲリラ的に紅テントを建て、問題作の「腰巻お仙 振袖火事の巻」を上演。公演中に機動隊300名にテントの周りを囲まれる。そして公演終了後には乱闘。逮捕、連行されている。
1969年、劇団「天井桟敷」の寺山修司は状況劇場のテント興業の初日に、冗談のつもりで祝儀の花輪を葬式用の花輪にした(これは寺山の天井桟敷の旗揚げ公演の際に中古の花輪を送られた事への意趣返しだった)。一週間後、唐は劇団員を引き連れて天井桟敷を襲撃。大立ち回りを演じ、乱闘事件を起こしたかどで唐と寺山を含む双方の劇団員が暴力行為の現行犯で逮捕される。
また、作家 野坂昭如とも新宿ゴールデン街の飲み屋で大喧嘩し、包丁を俎板に突き立てたこともある。
赤塚不二夫の著書によれば、酒場で喧嘩があると聞くと乱入し、大立ち回りをして見得を切ることもしばしばだったという。
小林薫が状況劇場を退団したいという話を聞いた唐は、小林のことを高く買っていたが為、退団を考え直すよう説得するために包丁持参で小林の住んでいたアパートへと向かう。しかし危機を察知した小林は既に逃亡しており、説得はできずに結局は小林の退団をなし崩しに認めてしまったという逸話がある。

また、この劇団からは前述した小林薫以外にも燦びやかな才能が開花している。
役者では、小林の他に根津甚八、佐野史郎、不破万作、六平直政、渡辺いっけい、麿赤児(大森南朋のお父さん)、大久保鷹、李礼仙、菅田俊らを輩出している。また石橋蓮司と緑魔子の『劇団第七病棟』には「ビニールの城」などの新作戯曲を提供し続けている。
芸術家では、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、クマさんことゲージュッカの篠原勝之などが美術を担当し、ポスターを描いている。

 
(横尾忠則による紅テントのポスター)

(出展『FASHIONSNAP.COM』)

 
また音楽を小室等が担当していた。他に人形作家として知られる四谷シモンも役者として状況劇場に参加していた。

番組を見ていると当時の事が甦ってきた。
唐さんの紅テント芝居は何度か見ている。「状況劇場」の時代と「唐組」の時代を合わせて3回や4回観ている筈だ。
でも公演タイトルが全然思い出せない。

取り敢えずググる。
したら、唐十郎のウィキペディアに作品欄があった。そこから時代的に考えられうるものを並べてみる。

『ジャガーの眼』(1985年)
『少女都市からの呼び声』(1985年)
『ねじの回転』(1986年)
『さすらいのジェニー』(1988年)
『電子城-背中だけの騎士-』(1989年)
『セルロイドの乳首』(1990年)
『透明人間』(1990年)
『電子城II』(1991年)
『ビンローの封印』(1992年)
『桃太郎の母』(1993年)
『動物園が消える日』(1993年)

何となくタイトルに記憶があるのは『ジャガーの眼』『少女都市からの呼び声』『さすらいのジェニー』『電子城』『セルロイドの乳首』『ビンローの封印』だ。しかし候補が6つもある。そんなには観ていないから、このうちのどれか3つか4つとゆう事になる。

最初に観たのは『ジャガーの眼』の可能性が高い。
場所は生國魂神社(註2)だろうか❓

 

(出展『オークフリー』)

 
でもチラシには「生國魂神社」とは書いてなくて、「大阪・南港フェリーターミナル前広場」とある。南港になんて芝居を観に行った記憶は全くない。もしも、そんな特異なとこに行ってたら、絶対に憶えている筈だ。となると、別な芝居であろう。
それに1985年といえば、まだ当時の彼女とクリスマス頃までは付き合っていた筈だ。そんな幸せな時代にアングラなんて観に行くワケがない。振られて心がズタズタになっていないと、アングラ芝居なんて観に行くワケがないのだ。たぶん観たのは別れた翌年の1986年だろう。

でもウィキペディアには、1986年は『ねじの回転』とある。そんな題名は全く憶えにない。どう考えても最初に観たものではないだろう。そもそも、そんな題名には全然そそられない。どう考えても観に行ったとは思えない。
じゃあ、いったい何なのだ❓記憶の波の中で溺れそうだ。

ネットで探しまくって、漸く分かった。

 

(出展『ヤフオク!』)

 
このチラシで記憶がパチンとスイッチが入ったように甦った。
初めて観たのは『少女仮面』の再演だ。まさかの、考えもしなかった再演とはね。劇団ってのは、よく再演するとゆうのを完全に忘れてたよ。ウィキペディアには、そんな細かい事まで書いてるワケないやね。もっと早く気づくべきだったよ。
気づいたところで、見つけられたかどうかはワカンナイけど。

客演に「第三エロチカ」の座長である川村毅の名前がある。確かに老婆の役で出ていたね。無茶苦茶、顔がデカかったから憶えているのだ。

『🎵時はゆくゆく〜 乙女は婆に〜 それでも時が〜 ゆく〜ならば〜 』

ポロッと挿入歌のメロディーまで口元から溢れ出たから、絶対に間違いなかろう。
そういえば、初めて生で見た唐十郎はペテン師みたいだなと思ったんだよね。エネルギッシュで胡散臭かった。でも、その背中には物語が流れていた。

 

(出展 NHKBSP『アナザーストリーズ』)

 
しかし、このチラシには東京公演(新宿・花園神社)の事しか書かれていない。じゃあ、どこで観たのだ❓ 再びネットサーフィンが始まった。

で、だいぶと苦労した揚げ句、漸く関西公演についての記述を見つけた。
どうやら場所は生國魂神社ではなく、また大阪でもなくて、京都だったようだ。「今宮神社御霊」とある。そんなとこ行ったっけ❓ 別な芝居か❓ じゃあ初めて観たのは何処で何だったのだ❓と脳ミソが一瞬パニックになりかけた。(´-﹏-`;)エーッ❗❓、ワシの記憶装置って、そこまでポンコツなの〜❓
だが、徐々に記憶が戻ってきた。
そうだ、結構遅い時間に芝居がハネたので、帰るのはまあまあ終電ギリだったのだ。今宮神社は紫野の船岡山近くにあり、最寄りの駅は無くて、基本はバスで行くしかないのた。うん、確かに京都に観に行ったわ。

戯曲『少女仮面』は、唐が鈴木忠志が主宰する早稲田小劇場に書き下し、1969年10月に初演。翌70年に岸田戯曲賞を受賞。71年には唐自身の演出で状況劇場でも上演された。謂わば代表作だ。調べた中では、この公演が「状況劇場」としては最後の公演だったようだ。最後の公演だからこそ代表作をもってきたのだろう。そして、最後の公演だからこそ、わざわざ自分も京都まで足を伸ばしたんだと思う。

物語のストーリーは全然憶えていない。憶えていたところで、解りやすい明確な起承転結など無かっただろう。だが、そこに意味はない。テント芝居は頭で理解するものではなく、感じるものだからである。
演劇に限らず、芸術やアートはとかく「わかるorわからない」で捉えられがちだが、テント内の空間には「わかる・わからない」を超越したものがある。照明が落ち、闇が訪れる。暗闇に心がざわめく。この、ほんの僅かな一刻(ひととき)に、何とも言えない心持ちにさせられるのだ。不安とも期待とも違う形容し難いザラザラとした気持ちだ。
そして闇の奥から音楽が流れ出し、灯りがついた次の瞬間には異空間に放り込まれる。一気に空間は怪しく猥雑な世界に蹂躙され、観客はその胎内宇宙に閉じ込められて、ワケもわからず否が応でも五感を激しく揺さぶられるのだ。

番組では、過去のインタビューも挿入されていて、そこで唐さんは『芝居は、観客を現実原則の外に連れ出すための麻薬。』だと語っている。確かに映画なんかよりも芝居の方が、そうゆう要素が強い。映画館では、空間が異次元化することはない。現実と虚構に、ちゃんとした線引きがされている。おそらく、そこにはリアルな役者の肉体が在るからだろう。ゆえに現実と虚構が混じり合うのだ。

観ていて、正直言って皆下手クソだなと思った。マシンガンのように早口でまくし立てられる役者たちのセリフは滑舌が悪くて、何言ってるか解らない。でも、それでいいのである。言ってしまえば、おどろおどろしい見世物小屋なのだ。言葉と肉体が躍動する異次元世界に、ただただ身を任せればいい。
思うに、演劇の原点である河原乞食の時代は、このような世界だったのではなかったか。きっと歌舞伎なんかも元々はこうゆうものだったのだろう。そういや番組では紅テントが、故・中村勘三郎に多大な影響を与え、それが「平成中村座(註3)」の旗揚げに繋がった事も取り上げられてたな。
勘三郎さんは紅テントの芝居に触発され、それが歌舞伎の原点だと考えた。そして、念願の歌舞伎本来の客席と舞台との距離が近く、演者と客が一体化できるような空間を作り上げたのである。

 

(出展『Wikipedia』)

 
勘三郎さんが亡くなったのは57歳だ。そのあまりにも早い死はショックだった。今でも残念でならない。もしまだ生きていたら、歌舞伎界の枠をはみ出して活躍していたに違いない。

何度も流されるメリー・ポプキン「悲しき天使Those were the days my friend」がとても素敵だった。
切ない旋律は美しくて同時に力強く、ロマンと旅情に溢れている。たぶんジプシー音楽だ。流浪の民の香りがする。紅テントも全国を旅していたワケだから、謂わばジプシーみたいなものだ。日本だけでなく戒厳令下のソウル(韓国)、独立したばかりで混乱していたバングラデシュ、レバノン・シリアのパレスチナ難民キャンプなどでも公演が行われている。紅テントは忽然と現れ、忽然と姿を消すのだ。心を揺さぶられる。たぶん放浪の旅には、自分は終生憧れ続けるだろう。

 
メリー・ホプキン『悲しき天使』

(タップすると曲が流れます。)

 
唐さんは、このレコードをかけっ放しにして、カレンダーの裏に『少女仮面』を二日間で一気に書き切ったという。

そして、この曲が流れる中でのエンディングだった。しかも屋台崩し。最後には突然、舞台後ろのテントの奥が開き、外の風景と繋がるのだ。
一瞬だが、母の胎内から外界に出た嬰児(みどりご)の如く、世界が真新しく見えたのを憶えている。

2回目に観た紅テントの芝居は何だろうか❓
頭の中にある紅テントの風景は、大阪だと前述した生國魂神社と精華小学校だ。

 

(出展『Het大阪建築』)

 
精華小学校はミナミのド真ん中、高島屋からも近い戎橋商店街沿いに入口があった歴史ある小学校で、レトロな雰囲気がとても好きだった。今は取り壊されてエディオンになっちゃったけどね。歴史的建造物が電気屋になるだなんて悲し過ぎるよ。
日本は古い建物にもっと敬意を払うべきだし、遺す努力をすべきだ。でも平気で簡単にブッ壊しよる。そうやって日本全国の風景が平準化されてゆくのだろう。それってクソみたいな事で、唾棄すべき愚かなことだと思う。

色んな検索ワードで試して、何とか1989年に生國魂神社で『ジャガーの眼』が再演されているのを見つける事ができた。
たぶん紅テントを生國魂神社で観たという記憶は、この時のものだろう。これで『ジャガーの眼』というタイトルが頭に残っていたという理由にも解決がつく。

 

(出展『amazon』)

 
ならば精華小学校の紅テントの記憶は何なんだろう❓
校庭に紅テントが張られていたという記憶は絶対に在るのだ。写真だと、白いワゴンがある辺りにテントが張られていた筈だ。これは幻の記憶ではないと断言できる。
或いは当日券で観ようと思ったが、入れなかったとか…。そういや、その時は一人ではなかったような気がする。だとすれば、或いはユーラシア大陸をバイクで横断した時の相棒と、後にその嫁となるシノブちゃん辺りと吉本新喜劇を観た帰りにでも冷やかしで様子見に寄ったのかもしれない。
段々『ジャガーの眼』も本当に観たのかどうかの自信が無くなってきた。この頃には既に東京に住んで三年目になっていたからね。
もう、こうゆう曖昧模糊とした記憶の霧の中を彷徨うのはよそう。そんな事、今となってはどっちだっていい事じゃないか。

次に観た唐組の芝居は、ちゃんと憶えている。
1991年、京都の円山公園で観た『電子城Ⅱ』だ。

 

(出展『路地裏 誠志堂』)

 
この白黒のチラシは、よく憶えている。
だって写真で見ても、下に並ぶ三人の役者陣の個性が強烈なんだもん。化け物屋敷かよと思った。ちなみに左から麿赤児、大久保鷹、唐十郎の並びである。

「乞食城より第十一指令!!
城門前で別れた者たちを集めよ!
そして少女アセトアルデヒドを捕えよ!」

こうゆう惹句的なのは結構好きだなあ。ワクワクする。
オラも一度はこんな風な感じの文面で指令を受けたいものだ。

↓下のは店販用ポスターみたいだ。大抵の劇団がチケットの販促のために居酒屋など飲食店にポスターを貼ってもらうのだ。これは、だいたいにおいて新人劇団員のお仕事なんだよね。人見知りの劇団員にとっては、もう地獄なのだ。人見知りしないワシでも結構辛いもんがあったからね。

 

(出展『オークフリー』)

 
この芝居は大学の後輩の古川と美紀ちゃんと行った。あともう一人か二人いたなあ❓菊池かなあ。あと福助さんもいたような気がする。
芝居は基本的には一人でを観に行くことにしている。だから自分から誘うことはないだろうから、きっと古川あたりに誘われて行ったんだと思う。

早く着いたので、紅テントの裏をウロついてたら、黒いスーツに黒い帽子姿の麿赤児が一人で佇んでいたのをよく憶えてる。何てったってモノ凄いオーラが出てたからね。忘れようにも忘れようがない。けど、本当は最初は麿赤児だってワカンなかったんだよね。何気にわりと至近距離まで近づいてしまってから気づいた。そういや、古川が『麿さんと知り合いかと思いましたわ。そんな近づき方でしたからね。』とか言ってたな。

この公演は初期の状況劇場の看板俳優である麿さんと大久保鷹が客演で出ていた。大久保鷹は劇団から忽然と姿を消して、長い間行方不明だった事から、キャッチフレーズは『生きていたのか、大久保鷹❗』だったんじゃないかな。

勿論、内容なんて憶えていない。
憶えているのは唐さんと麿赤児と大久保鷹だけだ。この三人がとても楽しそうに演じていた。めちゃくちゃフザけてたけどさ。
大久保鷹が、歩くとキュッキュッ、キュッキュッと鳴る幼児用のサンダルを爪先履きして出てきたのには笑ったな。麿赤児は突然、黒いスーツを脱ぎ始めたと思ったら、中はピンクのレオタードだった。そして痙攣するようにカクカク踊りだしたのだ。何だか度肝抜かれたよ。麿さんは舞踏家でもあるから(註4)解らないでもないけど、何でレオタードやねん❓もう次の瞬間にはオカシクって笑い転げていたよ。
その二人と再び同じ舞台に立った唐さんは、とても嬉しそうだった。この時の唐さんが一番生き生きとしていたように思う。

レオタードで思い出した。
この数日後には、大学の後輩たちが作った劇団の団員たちと仮装ソフトボール大会をしたんだよね。
何でそんな事になったのかとゆうと、オラがこの時期に偶々東京から大阪に帰ってきていて、後輩たちが『○○○さん、今回は何したいですか❓』と訊いてくるので、単なる思いつきで「仮装ソフトボール大会。」と答えたにすぎない。
勿論というか、多分というか『オマエら、やるからには手ぇ抜くなや。徹底的に気合い入れたれや、ワレー。』などと声にドスを効かせて言ったに違いない。
自分でゆうのも何だが、20代から30代まではやる事が破天荒のムッチャクチャだったのだ。だから大阪に帰って来ると毎回、嵐が巻き起こると言われていた。この他にも「焼肉焼いても家焼くな事件」とかハチャメチャなエピソードが結構あるのだ。
話が逸れまくっているが続ける。
この仮装ソフトボール大会には笑った。長髪に70年代風のパンタロン裾幅広ジーンズの奴がレフトで、ずうーっとギターをかき鳴らして歌ってたり(打球が飛んで来る度に足元のグローブをはめてたのも笑った)、長いドレス姿で踊ってる奴がセカンドゴロを捕ろうとして裾を踏んづけて大コケして派手にゴロゴロ転がったりとか、麻薬ジャンキーの丸サングラス盲目男がボンゴを叩きながら、時々腕を捲ってゴムで縛り、セロテープで貼り付けたスポイトを取っては注射を打って陶然となってるふりをしていた。スポイトには御丁寧にも1つずつ「覚醒剤」「ヘロイン」「LSD」「阿片」とかマジックで書いてあったのだが、ネタ切れで最後のスポイトには平仮名で「まやく」と書いてあったなあ。アレ、妙に可笑しかったよなあ。
自作の缶コーラの被りものをしてた奴もいたなあ…。そいつ、運動神経抜群だったからバッティングも良かったんだけど、被りモンを針金でガチガチに作ったもんだからバットを持っても肘が全く動かせなかった。だから変なバッティングフォームになってて、全部空振りの全打席三振。彼は本来は強打者なだけに、とても悲しそうな顔をしてたんだよね。申し訳ないけど、アレにも笑ったよ。そういや、振り逃げで走ったけどドテッとファースト前でコケてもいたな。他にはソフトボールのユニフォーム姿なんだけど超巨乳女だとかアラブ人の格好した奴とかもいたな。
そして、着物姿で刀を持ってピッチャーをしてた古川は、試合中盤、オラが打席に立ったら、突然「ワシを斬ってくだせぇー。」とかヌカし出しやがるから、刀を奪い取ってバッサー❗と思いきし斬ってやったら、アレェ〜とか言って悶え始めた。で、カクカクしながら脱皮するように服を脱ぎ始めた。何をしとんねん❓と思ったら、中は何とピンクのレオタードであった。そしてレオタード姿で麿赤児ばりに更に激しくカクカク踊りだした。😄爆笑である。
そんな姿の我々を体育会系の学生たちが、ずうーっと無表情で遠巻きに見てたんだよねー。
あっ、スマン。完全に脱線だね。話を本筋に戻そう。

唐さんの芝居を最後に観たのは、1992年の『ビンローの封印』だった。

 

(出展『日本の古本屋』)

 
唐さんの小説担当の徳間書店の編集者の人に連れて行ってもらったのだ。
たぶん場所は新宿・花園神社で、公演初日だったんじゃないかと思う。なぜなら芝居がハネたあとに招待客だけが残って車座に座り、唐さんが客一人一人に酒をついで回る儀式にもいたからである。おそらく初日に招待客を呼び、挨拶するのが習わしだったんだと思う。
周りには俳優とか作家とかの有名人が何人もいたけど、今や誰だったかは思い出せない。唯一、覚えているのは斜め後ろに映画監督の林海象がいたことくらいだ。待てよ、作家の島田雅彦もいたような気がするな。
ちなみに番組では、大江健三郎、大島渚、篠山紀信、吉本隆明、澁澤龍彦、柄谷行人、村松友視などの作家や映画監督、役者、芸術家、評論家など錚々たる人たちが引き寄せられるように集まったと紹介している。

唐さんは自分の前にも来て、一升瓶で紙コップに日本酒を注いでくれた。そして、鋭い眼光でコチラをジロリと見た。流石、武闘派で鳴らした御仁だ。オーラも凄かった。何か粗相でもしたかと、ちょっとビビったっけ。
そして、オラの目をグッと見て言った。

『おまえ、いい面構えしとるなあ。役者か❓』

気圧されて、
『はあ、川村さんとこ、第三エロチカにいました。』
と答えた。でも、こっちも負けまいとキッと唐さんの目を見て言ったけどね。
そしたら唐さんが、
『うちに来ーい❗』
と言ったんだよね。
その言葉は、番組で流された『北の国から』の映像の、純に言って海に向かって仁王立ちした時のセリフと全く同じだった。声も口調も寸分違(たが)わない。

 


(出展 NHKBSP『アナザーストリーズ』)

 
その声が、十数年振りに耳の奥でリフレインする。

でも、たぶん突然の事で『はあ…。けどそんなこと急に言われましても…』とか何とか、しどろもどろで誤魔化したような返答をしたと思う。劇団を辞めて、あまり経ってなかったから色々と行く末に迷っていた時期で、芝居を続けるか否かの岐路に立たされていた時でもあったのだ。それに元状況劇場に在席していた知り合いに、劇団の共同生活の過酷さを聞いていたというのもあったのかもしれない。家族みたいなもので、プライベートがなく、バイトも出来ないとか言ってたのだ。どこまで本当かはワカンナイけどね。

最後に唐さんは、
『その気になったら、いつでも来いや。』
と言って隣の人に酒をつぎ、話しだした。それで、ちょっとホッとしたのを憶えている。

唐さんに褒められたのは、正直嬉しかった。
今思うと、もしその懐に飛び込んでいたなら、どうなってたんだろう❓また違った人生を歩んでいたに違いない。

テントの外に出ると、もわっとした生暖かい空気に包まれた。
夏は既に終わっていたが、まだまだ残暑の厳しい年だった。
そして夜空の下の新宿の街は鮮やかなネオンに彩られていた。
新宿には、それ以来行ってない。

                        おしまい

 
追伸
番組を見て初めて知ったのだが、唐さんは2012年に自宅前で転倒して頭部を強打して緊急入院、脳挫傷と診断されたという。そして手術は成功したのだが、後遺症は残ったようだ。それから9年、今は80歳を越えておられる筈だ。番組を見た感じでは、演出を劇団員の古株に託し、第一線からは引いているようだが、稽古場には時々顔を出しているみたいだ。
元気な姿で、また舞台に立って欲しいと思う。そう、切に願う。

 
(註1)寺山修司
[1935年〜1983年」
歌人,劇作家,演出家,詩人。早稲田大学国文科中退。高校の頃から詩才が注目され,大学進学後には短歌50首『チェホフ祭』 で『短歌研究』新人賞を受賞。「私」性を排したロマンとしての短歌で戦後短歌史に新しい1ページを開いた。1960年に処女長編戯曲『血は立ったまま眠っている』を発表。 67年には横尾忠則らと実験演劇室「天井桟敷」を結成。見世物の復権を唱え,徹底した前衛性と市街の劇場化などで国内外にセンセーションを巻き起した。代表作に『毛皮のマリー』『奴婢訓』などがある。また『田園に死す』などの映画や,エッセイ,評論でも鋭い感性と独自の視点をみせた。(『ブリタニカ国際大百科事典』より抜粋)

  
(註2)生國魂神社
大阪市天王寺区生玉町にある歴史ある神社で、大阪の代表的な古社の一つである。
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して大坂本願寺も建立されて繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在の地に移されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神・足島神は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の一つである難波での八十島祭の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から移されたという久太郎町の坐摩神社と共に、難波宮との関わりも推測されている。その後、中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられたという。
新字体は「生国魂神社」。
正式名称は「いくくにたまじんじゃ」だが、周辺に住む人々の間では「いくたまじんじゃ」「いくたまさん」と呼ばれている。生玉町にあるし、生玉神社と表記されることも多いから、オラもずっと「いくたま神社」「いくたまさん」と呼んできたし、「生國魂神社」と書いて「いくたま神社」と読むのだとばかり思っていた。だから、ちょっと青天の霹靂だ。
でも、これから先も「いくたま神社」と呼び続けるけどね。「いくくにたまじんじゃ」だなんて、歯が浮いて噛みそうだもん。絶対、それ無理。

 
(註3)平成中村座
歌舞伎役者の第十八代中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と自由劇場の演出家 串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営。「平成中村座」と名付けて2000年11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。

 

(出展『Wikipedia』)


(出展『歌舞伎美人』)


(出展『チルチル☆Chimei☆』)

 
翌年以降も、会場はその時々によっては異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われてきた。だが、座主の勘三郎が2012年12月に他界した為、2013年は公演が行われなかった。その後、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟のニ代目中村七之助、ニ代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行った。
初演から2004年のニューヨーク公演までは仮設の芝居小屋での上演を特色としていたが、2006年の名古屋平成中村座公演以降は、既存の施設を利用しての公演も行われている。

 
(註4)麿さんは舞踏家でもあるから
状況劇場を退団後、1972年に舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げ、主宰する。海外公演も積極的に行い、舞踏を「BUTOH」として世界に広めた。