2020年 7月20日
近鉄奈良駅から外に出ると、凄い夕暮れになっていた。
何かが起こることを予兆するかのような凄絶で美しい夕景だ。
何となく、きっと今日は良いことが起きそうだなと思った。
そういえばこの日は、連日マホロバキシタバの調査に動いている小太郎くんには休むようにと釘を刺したんだっけ。前の日も一緒に能勢で灯火採集をして神戸までプーさんを送って朝方に奈良まで帰って行ったしね。だから小太郎くんには言わずに一人で春日山の原始林に入った。言ったら、近くに住んでいる彼は絶対に来る筈だからさ。
今回はイチイガシの木が多い場所に糖蜜を噴きつけた。
目的は殆んど糖蜜トラップに誘引されないマホロバキシタバを何とかこの手で捕らえることだった。この時点では色んな人がトラップを仕掛けたのにも拘らず、飛来したのはこの2年でたったの2例のみだったのだ。マホロバの発見者としては、そこんとこは抑えておかないとカッコつかないからね。
ならばとマホロバの食樹として有望視されるイチイガシの大木が多くある場所で糖蜜を撒きまくってやれと考えたのだ。
ちなみに春日山原始林と奈良公園は採集禁止である。なので、許可はちゃんと得ている。
午後8時40分。
糖蜜トラップに見慣れない蛾が来ていた。
近づくと、懐中電灯の光に照らされたそれは、渋い銀色でギラギラと鈍色(にびいろ)に輝いていた。まるでラメが入ったかのような妖しい光を放っており、質感は高級なベルベットを思わせる。シルバーベルベット。銀狐の美しさだ。闇の中で想念が慄(ふる)える。
蛾はカトカラとヤママユの仲間しか採らない主義だが、渋カッコイイので採ることにした。それにオラって牽きだけは強いからさ。2匹目の泥鰌(どじょう)、又もや新種だったりしてね。そんな目論見も無きにしもあらずだった。
やはり渋カッケーや。
当然ながら名前は知らん。珍しいかどうかもワカラン。蝶のことはそこそこ知ってはいても、同じ鱗翅目である蛾のことは素人並みの知識しかないのだ。
♀っぽいなあ…。
確認のために裏返してみる。
腹の感じからすると、♀っぽいね。
そして、やっぱ裏は汚い。蛾に今一つ踏み込めないのは、この辺に理由があるのかもしれない。勿論、裏面が美しい蛾もいるけど、相対的には野暮ったくて残念な奴が多いのだ。上翅は蝶を凌駕する多種多様で魅力的なバリエーションに富むのに、下翅と裏面がねぇ…。
暫くして下から闇をノタ打つ懐中電灯の光の束が見えてきた。
体が硬化する。一瞬、死体遺棄に来た殺人鬼かと思った。こんな時間に、こんな太古の森へと入って来る者など普通はいない。いるとしたら、彼しか有り得ないだろう。そう願おう。
正体の主は、やはり小太郎くんだった。休めよなー、この野郎。虫小僧、底知れぬ体力と精神力だわさ。
小太郎くんに、さっきのシルバーベルベットを見せると、何たらかんたらと云う長ったらしい名前を言った。(`∇´)ケッ、新種じゃないと分かって、その場で脳が名前を消去する。また、くだらぬモノを採ってしまったよ…。
彼曰く、無茶苦茶珍しいワケではないが、そこそこ珍しいらしい。特に関東方面では少なく、東日本の愛好家の間では評価が高いそうだ。だったら、まっ、いっか。
翌日、展翅するために羽を開いたら、下翅に黄色い紋がある。蛾って下翅が無紋のものが多いから、ちょい驚く。
といっても、黄色い紋は淡く、鮮やかではない。正直、あんまし綺麗じゃないよね。それに、夜に見た時みたいな妖しい光を放ってはいない。光の質とか当たり具合にもよるのかもしれない。ちょっいガッカリ。
まあいい。取り敢えず展翅すっか。
丸くて、お世辞にも形はカッコイイとは言えない。
ちなみに紫色の部分は、透明展翅テープに虫ピンの頭の色が映ってるだけで、実物にこうゆう色はない。
触角はカトカラみたく真っ直ぐにはしなかった。
カトカラと比して愛情が足りないので、邪魔くさかったのだ。
取り敢えず何者かを岸田先生の『日本産蛾類標準図鑑Ⅱ』で調べてみることにする。
結果、どうやらホリシャキシタケンモンとマルバネキシタケンモンのどちらかみたいだ。
でも形からすると、おそらくマルバネキシタケンモンだろう。
驚いたのは、♂と♀とでは触角の形が違うことだ。♂は触角が鋸歯状になるそうだ。
ということは、コヤツは思った通りに♀って事だね。
(マルバネキシタケンモン♂)
(出典『日本産蛾類標準図鑑』)
オスとメスで触角の形が違うといえば、ヤママユの仲間が思い起こされるが、ヤガ科にも居るのね。
後翅の黄色い紋が大きいのは、たぶん異常型かと思われる。
種の解説に戻ろう。
基本的な斑紋はホリシャと同様だが、より変異の幅があり、前翅外横線と亜外縁線の間が広くて灰白色を帯びる個体も見られるそうだ。
前翅は丸みを帯び、ホリシャのように翅頂部は突出しない。腎状紋内側に沿う黒条は弧を描き(ホリシャは直線的)、前翅後角にある白斑はホリシャよりも発達する場合が多い。後翅中央の黄色紋はやや細く、縦長になる(ホリシャは横長で縦に短くて丸みを帯びる)。
比較のためにホリシャキシタケンモンの画像も貼っつけておこう。
(ホリシャキシタケンモン)
(出典『日本産蛾類標準図鑑』)
左が♂で右が♀である。同じく♂は触角が櫛状だ。
裏面にも明確な違いがあるようだが、以下のサイトに詳しいので、気になる方はそちらを覗いてみて下され。
http://yokonami.web.fc2.com/4kisitakenmon.html
【分類】
ヤガ科(Noctuidae)
ケンモンガ亜科(Pantheidae)
ウスベリケンモン属(Trisuloides)
以前はホリシャキシタケンモンと一緒くたにされていたみたいだが、1976年に別種だと判明し、分離されたそうだ。
学名の記載者名は”Sugi”となっているから、たぶん蛾界に多大な功績を残された杉 繁郎氏の慧眼だろう。
【学名】Trisuloides rotundipennis Sugi, 1976
属名の後半の”loides”は「のようなもの、みたいな」という意味だが、前半の”Trisu”が分からないから何みたいなのかが不明。対象物がワカランのだ。ラテン語だと「3」に関係する言葉に使われることが多いようだけど、そこで思考は止まってしまう。カトカラじゃないから、別にいいや。掘り下げる気力なしなのさ。
小種名は前半部は”rotundity”あたりが語源だろう。意味は「丸み(丸味)、円み(円味)」。
後半の”pennis”はチンポ❓一瞬そう思った。
けど、んなワケないと思って調べてみたら「penna=羽根」とゆうのが出てきた。おそらくコレだろう。「丸い羽根」ならば意味が通る。語尾の”is”は多分ラテン語の女性形で、形容詞の語尾変化だろう。
【開張】♂35〜40mm。♀40〜52mm
何とオスとメスとで大きさまで違うのね。ちょっと驚き。
触角が鋸歯状だというのもあるし、来年はオスも見てみたいもんだね。
【分布】
伊豆半島以西の太平洋側、四国、九州。
国外では朝鮮半島南部に記録がある。
【成虫の出現期】
『みんなで作る日本産蛾類図鑑』には、5〜6月と9〜10月となっているが、岸田先生の『日本産蛾類標準図鑑』には、6〜7月と9〜10月となっている。多分、岸田先生の方が正しいかと思われる。今回の個体の鮮度状態からみれば、そう言わざるおえない。それに『みんなで作る日本産蛾類図鑑』の方は、情報の一部に正確性を欠く場合が多いからね。だから鵜呑みにしない事にしてる。
とにかく発生は年2化ってことだね。
【成虫の生態】
ネットや図鑑で生態について書いてあるものは見つけられなかったが、糖蜜トラップに寄ってきたんだから、間違いなく樹液には飛来するだろう。
ネット情報だと灯火採集でも飛来しているから、走光性もありそうだ。
読んでいないが『ホリシャキシタケンモンとマルバネキシタケンモンの生活史(2020 宮田)』という論文があるので、そこに詳しく書かれているかもしれない。
【幼虫の食餌植物】ブナ科コナラ属:イチイガシ
だからイチイガシの森に居たんだね。納得だ。同時に関東方面では稀少な種という謎も解けた。イチイガシは関東方面では殆んど見られないからね。ということは、マルバネは関西でも何処にでもいるという種ではなさそうだ。イチイガシは九州を除き、西日本でもそう多い木ではないのだ。関西だと群生しているのは奈良公園及び春日山原始林内と紀伊半島南部の一部にくらいしかない。
ちなみに近縁のホリシャキシタケンモンの食樹は同じブナ科コナラ属のウバメガシだとされている。なので分布は、より沿岸部となるようだ。ウバメガシは海岸によく群生して生えてるからね。となれば、ホリシャの方が生息域は広いと思われる。実際に大発生した記録も有るようだしさ。マルバネの方が少ないから、長年混同されてたんだね。
幼虫はヤガ科には珍しく刺毛のある毛虫型。
キモいので、画像は貼っつけないけどさ。
おしまい
追伸
タイトルのモチーフは鬼才デビッド・リンチの映画『ブルーベルベット』。闇をこれだけ意識させられた作品は他にない。ハリー・ディーン・スタントンのお菓子のピエロのシーンが特に秀逸だ。
この日、念願のマホロバキシタバも糖蜜トラップにやって来た。やはりあの凄絶な夕景は予兆だったのかもしれないね。
【マホロバキシタバ】
(2019年 7月 奈良市)
マホロバに関しては当ブログに『まほろばの夏(マホロバキシタバ発見記)』と題して書いた文章など数編があるので、興味がござる方は探して下され。