前回「悪鬼暗躍編」の続きである。
『ひ、一人でですかあ(◎-◎;)?』
巨匠のライトトラップの様子を見に行きましょうとMさんを誘ったのだが、キッパリと断られた。
で、一人で行ってこいと懐中電灯を渡されたのだった。
(-o-;)マジですか?
( ; ゜Д゜)マジですか?
( ̄□||||マジですかあ?
自慢じゃないが、オイラはものすごーく怖がり屋さんなのである。お化けとか幽霊とか妖怪とかがこの歳になってもメチャンコ恐いのである。ビビりのチキンハートのヘタレ野郎なのだ。
そんな男に、一人で山中の闇夜の道を歩けというのか。旦那~、ひどい、ひどすぎるよ(/´△`\)
しかも待っているのは闇の住人やら、蛾の怪物たちときてる。気がふれそうだ。
しかし、それを隠して『(`◇´)ゞアムロ、行っきまーす!』とか言ってしまったのだ。今さら、口が裂けても行けませんとは言えない。
(・。・)あっ、口が裂けてるといえば「アタシ、キレイ❓」の口裂け女だよね。また、いらぬ事を思い出してしまったではないか。闇夜に口裂け女に追い掛けられる様を想像して、ブルッとくる。
おまけに映画『八つ墓村(註1)』の白塗りの山崎努まで思い出してしまう始末。恐怖は連動する。
満開の夜桜をバックに、努がスローモーションで駆けてくるのだ。鬼の形相。躍動する筋肉。凄惨であり、美しくもある稀有な映像だ。口裂け女よか、努に追いかけ回される方がよほど怖いかもしんない。
そのシーンの後だっけ?前だっけ?
とにかく努は懐中電灯2本を鉢巻きにブッさし、修羅の形相で村人を追いかけ回し、💥🔫ダキューン❗、💥🔫ダキューン❗
猟銃で、村人全員皆殺しである。
( ̄□|||| こっわ~。
時刻は午前0時過ぎ。
泣く子も黙る丑三つ刻(うしみつどき 註2)である。
うしみつ💓ドキドキとMさんにわからぬよう小さく声に出して呟いてみる。
それで少しは気が楽になるかと思ったが、そんな低レベルの駄洒落、全然もって笑えない(-“”-;)
気のせいか、少し闇が濃くなったような気がした。
懐中電灯を手に持ち、意を決してなだらかな坂道を登り始めた。
チップス先生、さようなら(;_;)/~~~(註3)
歩き出してすぐにグンと一段、気温が下がった。
ひんやりとした空気が首筋を撫でる。
相変わらず細かな霧雨は音もなく降り続いている。
辺りは幻想的な靄(もや)に包まれており、懐中電灯で照らすと、光の束が闇を貫くようにして真っ直ぐに伸び、その先で漆黒の闇へと呑み込まれている。
奥は暗くて何も見えない。背中の毛が逆立つ。五感が鋭くなる。あらゆる音に耳をすまし、全身の皮膚で気配を感じ取ろうとする。なんとしてでも戦場から生きて帰らねばならない。
闇は単一ではない。微妙な濃淡があり、何か秘密の絵が何枚もそこに描かれていて、上から黒く塗り込められているような気がしてくる。闇の絵巻…。
梶井基次郎(註4)の小説にそんなタイトルの短編があったなと思う。どんな話だったっけ?
思い出そうとするが、どうしても思い出せない。
『哀れなるかなイカロスが、幾度(いくたり)も来ては落っこちる。』
あれは別な短編、『Kの昇天』か?
一瞬、自分がもう一人いて、今ごろ部屋でTVを見ながら酒でも飲んでいるのではないかと思った。
現実感がまるでない。同時に、このシーンとシチュエーションは過去にもあったのではないかと思えてきた。妙な既視感があるのだ。でも、そんなワケはない。この土地に訪れるのは間違いなく初めてなのだ。
ドッペンゲンゲル(ドッペルゲンガー)とデジュヴュがグチャグチャに混じりあって、その錯覚世界に脳が溺れそうになる。思考的溺死…。気が狂うのも時間の問題かもしれない。
昇天…。
(*`Д´)ノえーい、昇天とは縁起でもない。
想像が恐怖を増幅させる。恐怖とは想像だ。想像するからこそ、そこに恐怖が生まれる。何も考えるな。考えるからこそ、モノは恰(あた)かもそこに存在するかのように思えてくるのである。
普段我々が生きている現実世界でさえも、もしかしたら仮想の現実にすぎないのかもしれない。世界が本当にあるかどうかは誰にも証明出来ないのだ。
道の真ん中をゆっくりと歩く。
なぜなら横から何かが出てきても逃げられるようにする為だ。最初の一歩が肝腎なのである。距離が少しでもあれば、🚀ロケットスタートで逃げおおせる。ガキの頃から逃げ足だけはメチャンコ速いんである。
そういえば、大学時代の友人と3人で山の中で日が暮れたことがあった。熊とか何かが出たら、3人で戦おうぜとか言って手を繋がさせたんだよね。
これはホントは熊とか何だとかは関係なくて、だだオラが怖かっただけだ。
もちろんオイラは真ん中である。何かあったら、二人に守って貰わねばならないのだ。
暫く歩いた時だった。突然、横でガサガサガサーと云う音がした。
音がした瞬間の0.01秒後には、二人の手を振りほどいてロケットスタートでε=ε=ε=ε=┏( ≧∇≦)┛爆走し、彼らを遥か後方へと置き去りにしていた。
深層心理の中では、何なら彼らが熊の餌食になっている間に首尾よく逃走しようなどと思っている男なのだ。
そうです。ワタシは卑怯者なのです。
単に右隣の奴が横のススキを何気に叩いただけだったのだが、当然のことながら、あとでブチブチ文句は言われましたなあ。
懐かしい思い出だ。一瞬、和む。
だが、気を許してはならない。
時々、背後を振り向く。いつ口裂け女が追いかけてくるかワカランのだ。油断は禁物だ。
脳内モノローグは、エンドレスで目まぐるしく思念を
駆け巡らせる。
口裂け女に追いかけ回されたら死を覚悟するしかあるまい。ならば、窮鼠、猫を咬む。全身全霊をもって一矢報いようではないか。口裂け女のそのアゴの辺りに渾身のストレートを上から下に叩きこんじゃるぅ(#`皿´)❗
5分ほど歩いただろうか。遠くから地鳴りのような音が聞こえてきた。
このクソ真夜中に、👽宇宙人めがっ、地底基地でも作っているのか❓
ゴオーッ、バババババババ……。
近づくにつれ、段々音が大きくなってくる。
100mほど先で、膨大な光が空に向かって漏れ出しているのが見えた。
この期に及んで、宇宙人までもがワシの命を亡きものにしようとしているのか?…。
だったら、受けて立ってやろうではないか。刺し違えちゃる。
しかしすぐに、もしかして…と思った。
翼よ、あれが巴里の灯だ!(註3)
坂を登りきると、ハッキリと見えてきた。
たぶん、あれが巨匠のライトトラップだ。
闇夜に浮き立つ煌々と輝くそれは、未知との遭遇の世界だ。まるで着陸した宇宙船に見える。
同時に( -。-) =3ホッとする。
光とは、なんと人の心を安寧にすることよ。
もう大丈夫だと安堵の心がじんわりと全身を包み込む。
ガガガガガカァー、ドルルルルルゥー……。
目の前まで来ると、ものスゲー爆音だ。
巨匠は強力な発電機を使っているようだ。ライトも水銀灯だろう。バッキバキの強烈な光だ。
悪いが、Mさんのライトトラップとは次元が違う。スケールがデカいのだ。さすが虫捕り王と言われたお方は違う。
大きく息を吐く。さあ、目的を果たそう。
何だか肝だめしに来たみたいだなと思いつつ、まずは白布から点検していく。集まってきた蛾たちが、この白い布に止まるようにと配慮されたものだ。
だが、降り続けた霧雨のせいか、布はぐっしょりと濡れており、滑り落ちた蛾たちが底の方で折り重なるようにして弊れこんでいた。
下には水が溜まり始めており、半ば溺死、その殆どは亡骸と化している。死体の混沌(カオス)である。
『哀れなるかなイカロスが、幾度も来ては落っこちる。』
イカロスは太陽に向かって飛び、蝋でできた羽が溶けて墜死したが、蛾たちは人工の光に向かって飛んで、屍となった。🙏合掌。
それにしても酷いな。恐怖と闘いながらせっかくここまでやって来たというのに、目ぼしいものはまるでおらず、死屍累々とした蛾の死体の山を見させられるだなんて、サイテーだ。何かの罰だとしか思えない。
恐がり屋さんは長居などするつもりはない。ひととおりサラッと見たら、魑魅魍魎が跋扈する前に一刻も早く戻ろう。
そう思って、ふと何気に右側の杭の辺りに目をやった。
ドオ━━━ (◎-◎;) ━━━ン❗❗
いきなり強引のカットインで、おどろおどろしい映像が暴力的に網膜を支配した。
瞬時に全身がフリーズする。腰が抜けそうになった。
( ̄□||||あわわわわ…。
そこには、闇の将軍がたおやかに静止していた。
つづく
追伸
ハイ、またもや完結しませんでしたねー。
前にも言ったけど、書いてるうちに色んなことを思い出して、つい長くなるんである。
次こそは最終回です、ハイ。申しわけなかとです。
(註1)映画「八つ墓村」
(出典『サンダーストームのブログ』)
1977年に公開された日本映画。
原作は横溝正史。実際にあった事件「津山三十人殺し」をモチーフとしている。この事件はいまだに犯人が捕まっておらず、一人で人を殺した数の日本レコードである。
出演は渥美清、萩原健一、小川眞由美、山崎努など豪華キャスト。秘密は龍のアギトにあるのじゃあ~。
てっきり、努の疾駆するシーンは夜桜だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。夜明けかな?
人間の記憶は曖昧である証左だね。勝手に恐怖を増幅させているのだ。
(註2)泣く子も黙る丑三つ刻
本当は「草木も眠る丑三つ刻」です。しかも丑三つ刻と言われる時間帯は、正確には午前1時から3時の間である。因みに、丑三つ時と書くと、午前2時から2時半を指す。なぜそんな間違いをしたのかというと、怖くて考える余裕が無かったのである。恐怖は判断力を鈍らせる。丑三つ刻といえば、幽霊とか、この世の者ではならざる者が現れると言われているのである。で、夜中➡怖い➡丑三つ刻と頭の中で勝手に三段論法になったと云うワケですな。
(註3)チップス先生、さようなら
ジェームス・ヒルトンが1934年に発表したイギリス小説。名作文学の古典です。読んだことないけど。
小説の中身と本文の内容とは直接の関係はありましぇん。この世とおさらばの気分の時に、よくワテが使うフレーズです。
(註4)梶井基次郎
日本の小説家。1901年~1932年。
20篇あまりの短編を遺して、31歳の若さで肺結核で病没した。代表作には「檸檬」「櫻の樹の下には」「冬の蝿」などがある。
「Kの昇天」の文中の「哀れなるかな…」のくだりの句読点の位置は、本当は「哀れなるかな、」である。
自分的には「哀れなるかなイカロスが、」がしっくりくるから、そう記憶していたのであろう。
記憶では、梶井は中3か高1の頃に耽読してたと思う。ナィーヴで独特の世界観のある素敵な短編群だ。
今でも文庫本で売ってる筈なので、読まれることをお薦めする。
(註5)翼よ、あれが巴里の灯だ!
チャールズ・リンドバーグの伝記映画「翼よ!、あれが巴里の灯だ」からの引用。
1957年に公開されたアメリカ映画で、名画の一つとされる。
監督 ビリー・ワイルダー。主演 ジェームス・スチュアート。
リンドバーグの歴史的な偉業、大西洋横断無着陸飛行を描いた作品で、歓迎に沸くパリ、ル・ブルジュ空港に凱旋飛行した時にリンドバーグが放ったとされる「翼よ、あれがパリの灯だ!」と云う台詞が、そのまま邦題となったようだ(実際はそんなカッコイイことは言ってなくて、後付けのフィクションみたいです)。
因みに原題は「Sprit of St.Louis」。これはリンドバーグの愛機、セントルイス号の事である。シンプルなタイトルで好感が持てる。だが、邦題の方がロマンティックで素敵だ。
最近の洋画の邦題は原題そのままの事が多く、邦訳のタイトルをあまり見かけなくなった。何だか寂しい。
監督の意の入った作品そのままの題名にすべきと云う意見は理解できるが、タイトルだけ見ても、瞬時には意味が解らない事ってよくあるよね?あれって、何だかもどかしい。また、調べても直訳だと全く意味が解らないという事もよくある。邦訳って、結構味があって好きだったから、復活させてほしいよね。まあ、ワケのワカンナイの和訳や行き過ぎた意訳、ベタでダサいタイトルが増えるのは困りもんだけどさ。
この辺は、蝶の和名と同じだ。名付ける人に広範な深い知識がないから、クソみたいな和名がつけられるのだろう。昔の人の方が、風情とか粋の境地の精神があったのではないかと思う。