青春18切符oneday-trip春 第一章(3)

第3話 我もまた旅人なり

 
福井の鯖江に向かうか、敦賀に戻るか迷った。

 
しかし、鯖江に行ってしまえばノスタルジーに呑まれてしまうだろう。下手したら昔の記憶を辿って学生時代の彼女の実家を探して徘徊しかねない。でもそれを見つけたところで、どうするというのだ❓
まさか呼び鈴を鳴らして『娘さんはお元気でしょうか?』と訊くわけにもいくまい。そんなの完全にイカれポンチのサイコ野郎だ。それに滞在時間はそうも取れないだろう。

敦賀まで戻って来るのにも時間的不安がある。電車の本数は少ないだろうから、街なかで迷いでもすればドツボにハマること必至。駅で何時間も待つ破目になりかねない。当然、あとの予定はグチャグチャになる。
それはマズい。今日の一番の目的は他にあるのだ。そこを忘れてはならない。
後ろ髪を引かれるところはあるが、敦賀に戻ることにした。

午後3時47分の電車に乗る。
再びあの長い長いトンネルを抜け、4時過ぎに敦賀駅に着いた。

前々回に書き忘れたが、此処は去年に昔の彼女と短い時間だが訪れている。
小鯛の笹漬けで有名な「丸海」で、真鯛の昆布〆を買って食ったんだけど、アレはマジで死ぬほど美味かった。

 

 
丸海の小鯛の笹漬けは基本的には連子鯛(レンコダイ)を使っているのだが、季節限定で真鯛でも作られている。そして、これは昆布〆にしてあるのだ。
でも値段が高いんだよなあ。千円以上は優にしたと思う。まあ、お金は元カノが払ったから、偉そうなことは言えないんだけどもね。

 
商店街に向かって歩き始めると、こんなんがあった。

 

 
『銀河鉄道999(スリーナイン)』のメーテルと星野鉄郎やんか。

 

 
そして、『宇宙戦艦ヤマト』の古代進と森雪。

この2つの銅像は漫画家 松本零士の代表作だ。若い人でも名前くらいは知っているだろう。
2作品とも勿論アニメで見ているが、特に強い思い入れがあるワケではない。なのに両方とも主人公の名前がスラスラと出てきた事に我ながら驚く。昭和の記憶は鮮明なのだ。

他にも関連する銅像が続々と出てきた。
それで漸く貰った地図を真面目に見た。

 

 
ちゃんと各銅像の位置まで記されているじゃないか。
地図が細か過ぎて目に入らんかったわ。

順不同だが、他のモノも並べておこう。

 

 
このジジイは、たぶんヤマトの乗組員で軍医さんだ。
ジジイ、酒ばっか呑んでるんだよね。たしかメチルアルコールと何かを混ぜて、そのカクテルに「ヤマト」とか名付けて喜んでた記憶がある。完全に重度のアル中じゃないか。今の時代だったら、コンプライアンス的に間違いなく問題視されていただろう。改めて昭和って、おおらかで良い時代だったよな。それが今や、ホントつまんない時代になった。人の揚げ足ばかりチマチマ取って何が楽しいのだ❓不倫なんて他人がとやかく言う問題ではなかろう。何だか陰湿で暗い時代になったよね。クレイマーが正義をかざして闊歩する時代に幸せなどありはしない。最近の世の中、何だか相互監視がキツイわ。勝手に皆で社会主義やってる変な国になっちまってねえか❓

 

 
雪とアルフォン。

 

 
(☆▽☆)おー、スリーナインの車掌さんじゃないか❗
怪しく見えるが、本当は真面目でいい奴なのさ。
 

 
スッカ、スッカやんけ(ノ`Д´)ノ彡┻━┻
機関車を、ものすごーく簡単に意匠化しちまってる。
そもそも機関車には重厚さがないといけんやろが❓
期待してただけに、ベリー残念。

 

 
このポーズ、何か粋(イキ)ってて腹立つわー。
鉄郎って、チビでアホだから嫌い。💢イラッとくる。

 

 
メーテルに優しくされてるのも気に入らん。

 

 
メーテルは美人さんだよなあ。理知的でミステリアスなところが良い。松本零士作品に登場する女性はワシ好みの美人が多い。昔からクール・ビューティーは好きなのだ。

他にも沢山の銅像があるみたいなのだが、もう画像はない。
なぜなら、現在北側の商店街は道路の拡張工事中で、撤去されておったのだ。
ところで、何でもう一つの代表作『キャプテン・ハーロック』の銅像は無いのじゃ❓

それはさておき、敦賀は松本零士の生誕地だとか、この土地と何か深い関係があるのかと思いきや、そんなことは駅の観光案内所にあるパンフ等には一言も書いてなかったぞ。もしも生誕地だったら、もっと前面的に押し出している筈だもんね。
ではナゼに敦賀にこんなもんがあるのじゃ❓

気になるのでググると、敦賀商工会議所のホームページに、その由来が書いてあった。

『かつては東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、敦賀は「日本でも有数の鉄道と港の町」でした。1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて、「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像12体、「銀河鉄道999」のブロンズ像18体の計28体のモニュメントを敦賀駅から気比神宮までのシンボルロードに設置しました。』

なるほどね。ヤマトもスリーナインも旅の物語でもある。
にしても、理由としては弱くねえか? 他にも外に向かって開かれていた港はあるだろうに。
こんな微妙な理由で、よく松本零士先生も承諾したよな。

さらに足を伸ばして「氣比神宮(気比神宮・けひじんぐう)」へと向かう。
かなり有名な神社だが、敦賀には何度か来ているのにも拘らず、一度も訪れたことがない。
午前中に敦賀駅で次の電車待ちしていた時に、これは若しかして良い機会ではないかと密かに思っていた。人にせよ、土地にせよ、出会いにはタイミングというものがあると思う。

そう云うワケだから、電車の中で事前に Wikipedia で大まかな事を学習しておいた。

一部編集、抜粋しておこう。

『敦賀は天然の良港を有すると共に、北陸道諸国から畿内への入口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
創建は飛鳥時代で「古事記」「日本書紀」には早い時期から神宮についての記事が見られる。特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担っていた。また、中世には越前国の一之宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県にまで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。』

 

 
狛犬の背後の紅枝垂れ桜が美しい。

 

 
この大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つで、国の重要文化財にも指定されているようだ。
因みに他の2つの大鳥居は、広島の「厳島神社」と奈良の「春日大社」に有るんだそうな。それって両方とも世界遺産じゃね❓ 格式高けっ❗凄いぞ、GoGoー❗気比神宮。
その2つとも行ったことあるから、コレで日本三大木造大鳥居をタナボタ的にいつの間にか制覇じゃい❗

 

 
見事なまでの朱塗りの鳥居だ。
色が通常目にする鳥居のような明るい朱色ではない。見たことのない暗めの渋い朱色なのだ。それがどこか厳かさを醸し出している。正直、普通の朱塗りよか(☆▽☆)渋カッケー。

 

 
中に進むと、もう一つ鳥居があり、その向こうに本殿がある。

 

 
本殿は静かだった。
境内には誰もいない。時間が死んだように止まっている。
その静寂を破って柏手(かしわで)を打つ。空気が震え、音が奇妙なほど強調されて辺りに響く。
目を閉じ、心を無にする。何も願わない。最近はそうする事が多い。どうせ願い事なんぞしても、叶えてはくれまいと思うからだが、何だか心が落ち着くので気に入っている。
無心で、手を合わせる。再び静寂に包まれる。

東側の出口から出ると、驚いたことに目の前の風景は拡がらなかった。まさかの、それで社域は殆んど終わりだったのだ。ズッコケるくらいに簡単に見渡せる。社林も有るには有るものの、想像していたよりも遥かに狭い。勝手に広大な境内を想像してたから拍子抜けする。格式ある神社にしてはショボくねえか❓
けんど、そこで Wikipediaに書いてあった記述を思い出した。
社殿の殆んどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建だとか書いてあったわ。空襲を免れたのは大鳥居など一部だけだったらしい。
ならばと起源を調べたら、現存するこの鳥居が造営されたのは、何と西暦1645年なんだそうな。マジか❓、計算すると385年間も此処に建ってるって事じゃないか。それって、理屈抜きにスゲーや。

そう云えば、ウィキには松尾芭蕉とも縁(ゆかり)があり、「奥の細道」の旅で此処を訪れたとも書いてあったな…。

何気に振り返ると、実際に境内の端に芭蕉の銅像が建っていた。偶然でも何でもないのだろうが、タイミング良すぎて驚く。

そのせいなのか、何故だか写真を撮り忘れたので、他から画像をお借りしよう。

 

(出典『芭蕉が見た風景‐奥の細道を歩く‐』)

 
この下の台座には、俳句も刻まれていた。

「月清し 遊行のもてる 砂の上」

芭蕉翁が此処を参詣した際に詠んだ句だ。
前述したように「奥の細道」での旅の折りで、江戸時代の1689年(元禄2年)の事だったようだ。
w(°o°)wゲゲッ❗、って事はワシが見た鳥居と同じ鳥居を芭蕉様も見たってワケか。それって、スゴクね❓ 時空を飛び超えたような不思議な感覚を覚える。芭蕉翁との距離がグッと狭まり、同じ時間軸にいるような気がした。

句を意訳すると「月が清らかな光を放っている。歴代の遊行上人が持ち運んだと聞く神前の白砂の上に、その月の光が美しく射している。」といったところだろうか。

この句に関しては、少々の補足説明が必要だろう。
前提に芭蕉が、この地での月見を殊の外楽しみにしていたと云う事がある。
『奥の細道』を紐解こう。

満月の前夜、この日は美しい月が昇っていた。
宿の主人に「明日の十五夜もこんな素晴らしい名月が見られるでしょうか?」と尋ねると、主人は「北陸の天気は変わりやすいから、明日の夜が晴れるか曇るかは分からないよ。」と答え、酒を勧められた。
そして、氣比神宮の古事を聞かされる。
「その昔、二世遊行上人が神宮付近の葦を刈り、土砂を運んで水溜りや泥濘を埋め、参詣者が楽に歩けるようにと参道を改修されました。そのおかげで今は参詣に行き来するのに全く困ることが無くなったのです。それ以来、その古事を伝える伝統行事が続いていて、今でも歴代の上人が神前に白砂をお運びになっております。これを、この地では「遊行の砂持ち」と呼んでおりまする。」と。

その後、宿の主人に奨められて氣比神宮に夜の参拝に出かけた。芭蕉翁はその時のことを、こう書いている。
「境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の木々の間からは月の光が洩れている。神前の白砂には月光が射しており、一面に霜を敷いたように見えた。」
季節は秋で、この句の季語は「月」。ようは中秋の名月だったってワケだ。

境内には他にも句碑があって、画像の芭蕉像左奥の歌碑に5つの句が刻まれている。その一つが、この話の後日談みたいになっている。

翌日、翁は日本三大松原(註1)の一つである気比の松原に出掛ける。しかし、やはり宿の主人の言ったように天気は崩れた。勿論、月の姿は隠れて見えない。その時の句がコレである。

「名月や 北国日和 定なき」

訳すと「今宵は中秋の名月を期待していたが、変わりやすい北陸の天気に、生憎(あいにく)なことに雨になってしまったよ。」といったところか。

この句碑の残りの4句の一つは、「月清し…」である。
あとの3句も記しておく。

「國々の 八景更に 氣比の月」
「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」
「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」

何れも月を詠んだ句だ。
真面目に「奥の細道」は読んでないけれど、芭蕉は月に特別な想いを抱(いだ)いていたのかもしれない。

翁は敦賀で、他にも句を詠んでいる。

「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」
「衣着て 小貝拾わん いろの月」
「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」
「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
「中山や 越路も月は また命」
「月のみか 雨に相撲も なかりけり」

結構な数を詠んでるんだね。

つけ加えておくと、前回ギフチョウに会いに訪れた今庄の山中にある燧ケ城跡でも、芭蕉は句を詠んでいる。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

この城跡は南北朝時代の古戦場で、そこで木曽義仲に思いを馳せて詠んだ句なんだそうだ。芭蕉が立ったであろう、あの山城に自分も立ったかと思うと、今さらながらに感慨深いものがある。
そっか…、急峻な山だったのは、攻められ難(にく)いところに築城したからなのかもしれない。

ふと思う。そう云えば奥の細道の旅は次の大垣で終わる。
ようは敦賀への来訪は旅の終わり近くだったワケだ。翁が月に拘った気持ちが分からないでもないような気がしてきた。長い旅の終焉が近づくと、人は複雑な気持ちになるものだ。そして、愛惜しむように良き日々を過ごしたいと思う。

 
来た道を引き返す。

 

 
鳥居の向こうに夕陽が沈んでゆく。

 
       旅のそら
       古き社(やしろ)に
       春の夕

 
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
我もまた漂泊の想い、いまだ止まずである。

そろそろ、目的の場所を探さねばならない。

 
                        つづく

 
追伸
下手な駄句でクローズしてまって、すいやせん(´д`)ゞ
才能が無い奴だと笑って、何卒そこは目をつぶって戴きたい。

この日の話は、まだ続く。
当初の構想を超えて思いの外に長くなってきているので、この際タイトルも手直しした。相変わらずの出たとこ勝負で書いている人なのだ。毎度の事ながら、最初の構想が雑すぎるんだろね。

 
(註1)日本三大松原
気比の松原に、三保の松原(静岡県清水)と虹の松原(佐賀県唐津)を加えて日本三大松原と称される。気比の松原をハズして、天橋立の松原とする向きもあるようだ。まあ、どっちだっていいけど。だって三保の松原も虹の松原も、そして気比の松原も一度だって見た事がないのだ(天橋立の松原は行ったことがある)。美しい松原のイメージが希薄なんだから、比べようがないのである。